2019年5月22日水曜日

佐久から岡谷までの国道142号のルートに高速道路がほしい

佐久から岡谷にかけての国道142号は3桁国道でありながらかつての中山道のルートで本来ならば国道21号と同じくらいの扱いであってもおかしくないのに、沿線人口が少なく交通量がさほど多くないことが、長野県内で完結していることから3桁国道扱いである。しかし、北関東から西日本方面への最短ルートに位置しているためトラックの往来が多い。岡谷から先は塩尻峠を越えて国道19号、国道21号とほぼ中山道のルートが下道最短ルートである。そのため、夜中になると大量のトラックが通過しているらしい(夜中にこの区間を走ったことが無いので直接確かめたことがない)。

この区間をGoogle Mapで検索したりカーナビで検索したりすると、国道142号経由に加えて更埴JCT経由の高速道路ルートや、国道254号三才山トンネル経由のルートもヒットするが、三才山トンネル経由のルートは所要時間がかかりすぎて競争力が無い。高速道路経由との比較は以下の通り。

インターチェンジの外を起点・終点とする場合、国道142号経由で1時間16分58.4km高速経由で1時間27分121km。国道142号経由の場合には新和田トンネルの通行料金のみ(普通車620円、付近のコンビニで回数券を購入すると560円)。高速経由の場合には、休日割引でも普通車2250円。ただし高速を通しで乗る場合にはターミナルチャージ150円x2が不要なので実質的な料金差は1390円だし、どちらでも所要時間は1時間20分程度になるので、所要時間に差はない。しかし高速代や燃料代の高い大型車にはインパクトがあるので、大型車が国道142号ルートを好むのは理解できる。

中央道が渋滞するときの迂回路としても使えるが、中央道で渋滞が無いときに比べて1時間ほど余計にかかる(裏返せば、中央道が1時間以上渋滞する場合には国道142号経由の迂回ルートとして機能する)。佐久南インターから岡谷インターまでの一般道区間も高速道路だったらこの区間の所要時間が80分から40分程度に短縮されるだろうから、そうすれば中央道経由に比べて20分余計にかかるだけになって中央道の渋滞に影響されずに通年で安定して走行できるし、一般道走行が不要になる分走りやすくなる。高速道路ではなく地域高規格道路だったら所要時間60分くらいだろうか。中部横断自動車道の八千穂以南を建設するくらいだったら、こちらの方がはるかに費用対効果が高いのではないか。

新和田トンネルはそのまま流用すれば建設費を安くできる。笠取峠はトンネルで勾配と曲線を緩和し、芦田から望月にかけては中山道旧道の南側をバイパスし、佐久市内では国道142号の北側をバイパスして佐久小諸JCTに直結させれば距離を短縮することもできそうである。岡谷側では岡谷ICと塩尻ICの間にJCTを設置すれば新和田トンネル西側の勾配と曲線を緩和できるし、塩尻峠でのスタック対策にもなる。大型トラックは積雪時に急坂や急勾配でスタックしやすいので、線形を緩和すれば通年で安定した通行を実現できる。東信地方はほとんど積雪が無いが、それでも標高の高い和田峠付近や塩尻峠付近では雪が降る。

2019年5月12日日曜日

なぜ一人で旅行するのか

個人が何をしようと本人の勝手なはずなのに、世の中には「なぜ一人で旅行するのか」をいちいち詮索する人がいるらしい。そういう場面に備えて回答を用意しておいたので、どんどん撃退してほしい。よく考えれば一人で旅行する理由はきちんと存在するのだが、普段一人で旅行する人はそれがあまりにも当たり前なのでいちいち意識しないのではないだろうか。

平たくいえば、「一人で移動しても問題ないくらいに安全である」「旅行とは旅先でお金を使う行為であり、そこには人との接点があるので別に寂しくはない」の2点である。

1.一人で旅行しても問題ない理由

エベレストに登る際に一人というのは危険だろう。エベレストでなくても、一人で冬山に登るのはそれなりにリスクがある。何かあったときに周りに助けてくれそうな人が誰もいなければ命にかかわる問題である。これは旅行に限った話ではなく、鉄道で乗務員がワンマン運転できるのも相応のバックアップ体制があってのことで、例えば飯田線の秘境区間では何かあったときに備えて車掌が乗務している。仕事で危険な場所(例えばガスが充満している所)に立ち入る場合にも必ず複数で行動する。

そこまで極端な状況でなくても、言葉や交通法規や切符の買い方のわからない国で一人で移動するのはリスクなので、そういう状況に対応できる人は限られているだろう。しかし日本人が日本の公共交通機関を利用したり日本の公道を走行したりする際には、助けを求められる人が必要というほど危険ではない。

宿泊の際にも、日本の大手のビジネスホテルチェーンで泊まる程度だったら犯罪の被害にあうことを想定した対策は必要ないし、寝ているときに野生動物に襲われるおそれもない。昔の旅館では一人客が断れれる場面もあったようだが、ビジネスホテルではシングルルーム主体なので一人で宿泊しても問題ない。

一人で車で移動する場合には、一人だと自分で運転し続けなければならないので、複数人で運転を交代する場合に比べて不利ではあるが、米国ならまだしも日本は車移動でそんな長い距離を移動する必要に迫られるほど国土は広くない。高速道路網の発達した欧州では、一人で1日に往復で1000km走るくらいはざらだが、日本では個人が車で1日に600km以上移動する場面なんてそんなに無いのではないか。きちんと休憩を取りながらなら一人でも運転できるので、予め時間に余裕を持たせた行程にすればよい。

昔はカーナビが無かったので知らない道を走る際には助手席の人が地図をもとにナビをできればそれに越したことは無いが、カーナビが無かった時代であっても道に迷ったら車を安全な場所に停車させて地図を見れば済むことである。今ならカーナビがあるし、Google Mapで事前にルートを予習できるので、道を曲がる場所がわかりにくいのでない限り、めったに道に迷うことはない。

何かあった場合の対応についても、国道・県道・市道といった普通の道路なら保険会社のロードサービスやJAFを呼べる。

大きな荷物を持って移動する場合、トイレに行く際やちょっと買物する際に荷物を見てもらえる人がいれば安心だが、日本国内の短期の旅行でそこまで大きな荷物を持つことはない。

西欧はカップル社会なのでレストランやリゾートホテルは2人単位でないと不利だが、日本はカップル社会ではないので単身者でも気軽に利用できる宿泊施設や飲食店に事欠かない。特に単身世帯の多い日本の都市部は単身者にやさしい。レストランは非日常の社交の場だが、一人でいる分には社交は不要で、したがって、敢えてそのような場所に近づく必要はない。

そもそも旅行なんて趣味なのだから、最初から一人で移動しても問題ないような範囲にとどめておけばよい。一人で旅行する人はその程度のことは当然考えている。逆に、一人で旅行したことの無い人は、どこにどういうリスクがあってどう対処すればよいのか知らないから不安なだけかもしれない。

2.一人で旅行しても寂しくない理由

まだ人類が滅亡していないので想像の話でしかないが、もし人類滅亡後の世界で一人で生きていかなければならないとしたら、たぶん寂しいのではないかと思えてくる。しかし実際にはまだ人類は滅亡しておらず、旅先のそこかしこに人はいる。特に日本で公道のあるような所では、完全な無人地帯というのはなかなか無い。さすがに用もないのに話しかけることはないにせよ、旅行の際には旅先でいろいろな形でお金を使うので、人との接点はいくらでもある。相手は商売なので客に対してそんなに変な態度を取ることはないし、日本の治安ならばさほど疑ってかかる必要もない。

むしろ、一人だと寂しいという発想の方がおかしい。寂しいというのは他者を自分と同等の生命体だと受け入れられない際に生じる分離意識に基づく感情である。これは人間に限った話ではなく、動物だって植物だって生命である。群れるのは不安の裏返しである。群れる人が群れない人を攻撃するのも不安の裏返しであり、かつ群れる必要の無いような不安の無い人への嫉妬でもある。一方、精神的に自立した個人は一人でいても不安でないし、不安でないから他人に干渉することもない。そもそも他者の存在をある程度尊重する人は気安く他人に干渉しない。

「せっかく旅行に行くのに、その感動を共有できる相手がいないのは寂しいだろう」というのも余計なお世話で、他人と共有しなければ味わえないような感動なんて所詮その程度のものでしかない。何かあったときに他人と共有しなければ気が済まないというのも不安の裏返しである。自分の気持ちがよくわからないから同質な人に気持ちを確かめなければ気が済まないのだろう。

3.一人で移動する方が楽な理由

これは団体旅行の幹事との対比で考えるとわかりやすい。人の好みは人それぞれなので、各人の好みを尊重しながら意見をまとめるのはかなりの手間である。仲の良い友達やカップルが旅行を機に喧嘩別れすることがあるくらい、同一行程で旅行するというのは大変なことである。成田離婚は当然のリスクである。そういう手間を感じない人は、他人の努力にただ乗りしている人か、あるいは自分の考えを持たない人である。いずれにせよ人としていかがなものだろうか。一度でも自分ですべてアレンジする経験を持てば、他人の世話をせずに済む方が楽であることは火を見るよりも明らかである。旅行なんて趣味で自分の行きたいときに行きたい所に行くものなのだから、自分の好みのみに基づいて行動できる方が楽に決まっている。

複数人で行動する方が安全というのは、いざというときに互いに助け合うことができる場合の話であって、他人に努力にただ乗りするだけの人がいても何の役にも立たないどころかむしろ足手まといなので、安全確保の観点からすれば、そのような人を排除する方が望ましい。

4.「なぜ一人で旅行するのか」と尋ねる人は、もしかしたら一人で旅行できる人になりたいのかもしれない

各人の考えは人それぞれなので一律にこうとは言い切れないが、群れることが当たり前の人は、一人で旅行をするということに興味を持つことすらないはずである。一人で旅行する人に対して興味を持つということは、もしかしたら群れずにはいられないくらい不安な状態から脱却したいと望んでいる可能性も排除しきれない。何かを実現したかったら、できていない人に尋ねるのではなく、できている人に尋ねるべきなので、そういう意味では一人で旅行できている人に尋ねること自体は別段間違っていない。

しかし、不安を払拭するための唯一の方法は自分で経験を積んで知見を蓄積することである。なぜなら不安は無知の裏返しだからである。もちろんいきなり大きなことから始めようとしても無理で、簡単にできる小さなことをこつこつ積み重ねるしかない。遠くに行くばかりが旅行ではない。旅行とは非日常であり、普段通っている道と違う道を通ってみるのだってささやかながられっきとした旅行である。宿を取るノウハウが無くたって日帰りでの旅行ならできる。この程度ならできるだろうと思う範囲でこつこつ経験を積めば、いつの間にか当初想像もできなかった高みに登っているものである。それができないのは最初の一歩を踏み出す勇気の無い人であり、残念ながら機が熟していないのだろう。本当にやりたいことであれば、他人に背中を押してもらうまでもなく、むしろ周りから反対されようとも自分で勝手に動くものである。そうならないうちはまださほど興味を持っていない。

2019年5月9日木曜日

ノートe-Powerに乗ってみた

短時間ながらノートe-Powerに試乗する機会を得た。

【シフトレバー】
プリウスと同様のタイプである。Pレンジを選択する際には、シフトレバーの上についているPボタンを押す。

【パーキングブレーキ】
ガソリンエンジン車と同様に通常のサイドブレーキ。e-PowerにはMTが無いので必ずしもサイドブレーキにする必要はないのだが、こちらの方が使いやすい。

【走り】
燃費の良い順にECOモード、Sモード、ノーマルモードである。
《ECOモード》
評判通り、アクセルペダルを戻すと普通の車でブレーキを踏むのと同じくらいの強烈な回生ブレーキがかかる。慣れていないので、アクセルペダルの踏み具合がつかめず、減速したり加速したりしてぎくしゃくした。慣れれば1ペダルで運転操作できるのでペダルの踏み間違いを減らすことができるのではないだろうか。
《ノーマルモード》
普通の自動車と同じような操作感なので、レンタカー等でたまに乗る際にはこれが最も運転しやすい。アクセルペダルを戻してもさほど回生ブレーキがかからないが、ブレーキペダルを踏めばもちろん回生ブレーキがかかる。燃費を重視しない代わりに太いトルクで力強い加速を味わうことができるので、街乗りでは最強ではないだろうか。リーフ用のモーターを積んでいるので、モーターのパワーには余裕がある。ノートe-Powerが売れる理由がよくわかる。ノートのガソリンエンジン車はあまりパワーがないうえに3気筒の騒音と振動の多いエンジンなので、レンタカーでノートをあてがわれるとハズレを引いた気分になったが、e-Powerなら申し分ない。
《Sモード》
ECOモードとノーマルモードとの中間の穏やかなモードで、過度に燃費重視で遅いわけでもないので、普段乗るならこれがよいかもしれない。Sモードでもアクセルペダルを戻すと強い回生ブレーキがかかる。

【エンジン】
1.2Lのエンジンだが、発電専用で効率のよい回転域のみ使えるので、さほど不快ではない。バッテリー容量が小さいので始動するとすぐにエンジンがかかる。それでも車庫入れでバックする際にはエンジンが動かないので静かである。

【室内】
室内は他のノートと同じである。当然のことながらアクアよりもはるかに広い。

【アラウンドビューモニター】
ノートの上位グレードなのでアラウンドビューモニターがついていた。しかし車庫入れのときにはアラウンドビューモニターに気づかなかったので、普通にバックモニターとミラーを見ながらバックしてしまった。ために縦列駐車するときのように、車幅間隔をつかみにくい場面では役に立つかもしれない。

2019年5月8日水曜日

子世代所得連動型社会保険

少子高齢化が進むと高齢者を支えるための現役世代の負担が増大すると言われている。たしかに困窮する人に死ねとは言えないので誰かが支えてあげるに越したことはないが、その一方で、支える側が困窮して日々の生活もままならなくなるのもおかしい。また、高齢者を支えるための原資は現役世代の稼ぎだが、現役世代が生きていけなくなってしまっては元も子もない。所得再分配には利害の対立が伴うが、そういうときにはバランスが大切である。となると、社会保険(主に公的年金と医療保険)の現役世代の負担比率に対して一定の上限を設ける必要があるのではないか。

そこで、社会保険の支給額の原資を世代別(コホート別)に区切って、親世代の社会保険の支給額を子世代の総所得の一定割合とするのはどうだろうか。親子間の年齢差をいくつに設定するかについては議論の余地があるが、人口統計上は30歳くらいである。すなわち、60歳での社会保険支給額の原資は30歳の総所得に一定の係数を乗じたもの、70歳での社会保険支給額の原資は40歳の総所得に一定の係数を乗じたもの、90歳での社会保険支給額の原資は60歳の総所得に一定の係数を乗じたもの等である。各世代ごとの係数に関しては、需給をマッチさせるためにある程度調整が必要かもしれない。

まず一つ目の理由だが、30年の年齢差を設けると社会保険の需要と負担能力とが意外とマッチする。30歳の所得はまださほど多くないが、60歳くらいであればまだ働ける人が多い。40歳になると多少は所得が増えてくるし、さすがに70歳で働くのはつらいので社会保険に頼りたい。80歳になれば医療費もかかってくるが、その頃には50歳の所得も増えているだろう。60歳の所得は減少するし、むしろもらう側に転じる時期だろうが、90歳で生きている人はほとんどいないので問題ない。

社会保険支給額の原資を子世代の所得と連動させるもう一つの理由は、親世代が子世代の所得増大に責任を取ってほしいからである。親世代は子世代の教育に責任を負っているのだから、子世代が稼げるように教育投資してほしい。また、50歳60歳で逃げ切るために20代30代の若者の所得を犠牲にして稼ぐ力を損なえば、将来自分がもらえる社会保険の額に跳ね返ってくるようにすることで、若者からの収奪に対する抑止力としたい。

少子高齢化が進むと高齢者の政治的影響力が強くなり、その結果高齢者が若者を収奪する政策が支持される。それを食い止めるために、若年層の所得が減少すれば高齢者の社会保険に跳ね返るようにしたい。若年世代の総所得を増やすためには、若年世代の一人当たり所得を増やすか、若年人口を増やすかする必要がある。そのため、親世代に子世代の稼ぎを増やす動機を与えることで、少子化に対する抑止力にもなる。

そもそもそんなことは社会保険の無い時代には当たり前だった。年を取ってから誰かに養ってもらうとしたら、通常は自分の子供に養ってもらうしかない。となると、子供を産んで育てる必要があるし、よく稼げるようになってもらわなければ自分の老後が危うい。子供がいなければ養子を取る動機がある。特に家系の存続が重要な武家や商家では家督相続権の無い次男三男等を養子に迎えることが当たり前だった。右肩上がりに成長できなかった江戸時代でもそれでやっていけた。

高齢者に責任を問うような政策が政治的に実現可能かという問題はもちろんある。おそらく政治的には難しくて、財政問題として財務省主導で推進しなければ実現しないのではないだろうか。財務省にとっては社会保険の財源の心配がいらなくなるので、決して悪い話ではないはずである。

真の成果主義と偽の成果主義

日本では西暦2000年頃から2010年頃にかけて大企業を中心に「成果主義賃金」というものが普及していった。ではその結果労働生産性が向上したかというと、データの上では労働生産性向上は僅かだし、マクロデータでもバブル崩壊以降の成長率の低下は全要素生産性の低下で説明できてしまう。現場の感覚レベルではそれ以前から「成果主義」が成果に寄与していないのではないかという疑問があった。従業員意識調査においても「成果主義」が働きがいに関する指標を悪化させるということが知られていた。成果を志向するはずの人事制度がなぜ成果に貢献しないのだろうか。

日本企業で導入された「成果主義」の中核をなすのは期初の目標設定と期末の評価である。期初に様々な項目から成る目標を従業員が設定し、直属の上司との面談によって承認を得る。期末になると設定された目標の達成度を従業員が自己評価し、それをもとに直属の上司が面談の上で成果を決定する。成果を評価するためには目標が定量化されていなければならないので、目標設定は、KPIという名目で無理やり定量化された目標をでっちあげることから始まる。

この手法はもともと米国企業のホワイトカラー労働者向けのものである。米国企業のホワイトカラー労働者の特色は、1)業務や成果測定が契約ベースであり、詳細な労働契約が定められていることと(契約書は500ページくらいで、弁護士のレビューが必要)、2)採用や評価に関する全権を直属の上司が有しており、上司が自己の成果を出すために人件費をかけて部下を雇用していることの2点である。

ひるがえって日本企業では1)労働契約が存在せず、労働者のプールに対して会社が一方的にルールを決めて個々の従業員に業務を命じたり役職や給与等級を決定したりする、2)採用は人事部による一括採用で、直属の上司は人事に関する裁量を有さない、という根本的な違いがある。制度設計においては、細部の微妙な違いが全く異なる結果をもたらすが、前提条件が根本的に異なれば結果が全く異なるのは火を見るよりも明らかである。にも関わらずそのようなことに誰も疑問を抱かないのは、日本の大企業のサラリーマンが外の世界を知らないからである。

日本企業の新卒一括採用が悪いというわけではなく、うまく機能すれば米国のような極端な学歴主義(ひいては機会の不平等)や欧州のような若年失業を回避できる。しかしそれは新卒一括採用枠が求職者に対して十分に提供されていればという条件付であるが。各国で発達してきた制度は様々な制度の組み合わせのもとでうまく機能してきたものなので、個々の制度を見るだけでは不十分で、全体の整合性を考慮しなければならない。

本来、成果を達成するためには、各人が費用と便益に基づいてリソースを配分する必要がある。上司や会社にとっては人件費は費用なので、人件費の無駄遣いを抑制しながら成果を最大化することが求められる。一方、従業員によっては報酬は便益なので、時間や能力や体力を無駄遣いせずに便益を得る方法を考えながらリソースを配分する必要がある。うまく機能すれば上司も従業員もコストの割に成果に寄与しない作業を抑制するようになり、成果を達成しやすい作業にリソースを集中することになる。

ただし、これらがうまく噛み合うためには制度設計の整合性が求められる。異質な制度を中途半端に混ぜると制度の整合性が損なわれるので意図した結果を実現できない。米国のホワイトカラーの流儀を導入するなら契約ベースの労働や分権的な採用とセットで導入しなければ意味がないが、どういうわけか日本の大企業ではそうはならない。そうなると、そもそも日本企業で導入された「成果主義」というのは本当に成果を目的にしたものなのかと疑問を抱かざるを得ない。収益力が低下して従来の年功賃金を維持できなくなった日本の大企業が人件費を抑制する目的で導入した制度であれば、成果を達成するための制度上の整合性なんて必要なくて、賃金を払わない理由を作ることができれば十分である。

しかし、人件費を抑制するというのは人が余っていた時代の産物であり、人が足りないときに一方的に人件費を抑制したら働き手がいなくなる。会社がお金を持っていても、そのお金のために働いてくれる人がいなければ会社は何もできない。従業員を稀少資源と認識すれば、無駄な労働を抑制するはずである。従業員の生産性を最大限に高めても業務が回らないとしたら、そのままでは従業員の離職を止められないので、人を増やすか仕事を減らすかしなければ会社は存続できない。人が足りない時代に人を増やすのは難しいので、会社の経営戦略上重要でない仕事をやめることになる。

2019年5月3日金曜日

北方領土を取り戻して何をしたいのか

日本人なら誰しも、北方領土は日本固有の領土であるが1945年9月以来ロシアに不法占拠されている、日本に返還されて然るべきと教えられている。北方領土返還へ向けて粘り強く活動している人達もいるようである。例えば、独立行政法人「北方領土問題対応協議会」のサイトでは、北方領土の歴史や地理に関する情報や、返還運動の活動内容がよくまとまっている。

しかしこれらの情報に接して不思議に思うのは、返還後の北方領土で何を実現したいのかについての情報が見当たらないことである。「この地域をこうしたい」というビジョンがあって、それを実現するための手段の一つとして日本で領有するというのならわかるが、目的が存在しないのに手段だけが独り歩きしているような印象を受ける。「我が国固有の領土だから返還されるべきである」というのは国が教育によって刷り込んだ観念でしかない(17世紀以降の領土獲得競争の中で、もともとアイヌが住んでいた土地を後から乗っ取っておいて何が固有の領土なのだろう。アイヌの視点からすれば日本だって不法占拠である。占有したから領土であるというのなら、現在ロシアが占有している地域はロシアの領土であると認めたことになる)。この地域に住む人が幸せに暮らせるビジョンを具体的に描くことなしに頭で考えたことを動機としているから実現できない。人を動かすにあたっては、イメージする力の強い方が勝つ。

例えば、この地域の動植物を保護するために自然保護区を作りたいという目的があるなら、実は択捉島の大半は既にロシア人の立入すら禁止された自然保護区だし、ロシアの統計では歯舞諸島には人が定住していないので人間による干渉は最小限に抑えられている。動植物にとっては保護されていれば十分であって、自然保護区を管理する主体がロシア人であろうが日本人であろうがそれ自体は直接関係ない。

あるいは、離島は風が強く風力発電の適地であることから、定住人口の少ない北方四島に風力発電機を大量に設置したいと考える人もいるかもしれない(上記の自然保護とどう両立させるかはともかくとして)。発電した電力をサハリンまで送電するのは全く現実的でないので、北海道に送電することになるだろう(個人的には北海道とサハリンとの間に海底送電ケーブルを敷設してロシア極東地方と広域連系してもよいのではないかと考える)。となれば、あとは風力発電事業の開発主体や発電事業者が誰かという問題でしかなく、ロシアが実効支配する場合と日本が領有する場合とでどちらが事業の実現の足しになるかという比較検討の問題である。

単に水産資源の獲得が目的であれば、陸地は不要である。食べる分だけロシアから魚を買うのと、北方四島周辺の排他的経済水域を一括払いで購入するのとどちらが有利かという比較検討の問題になる。日本では人口が減少しているし、特に若い人はあまり魚を食べないので、食べる分だけ買う方が安くつくのではないかと思えるし、他の地域で取れる魚を買うという選択肢の中での競争になる。そもそも日本では漁師の数が減少しているので(直近10年間でも3分の2に減少している)、仮に排他的経済水域を獲得しても漁をする主体がいないのではないかと危惧する。

日本人が住む場所を確保するのが目的と言われても共感できない。北海道本土ですら人口が減少しており、鉄道インフラの維持もままならない状況にあって、北海道で最も開発の遅れている道東エリアよりもさらに東に位置してろくにインフラが整備されていない北方四島に一体誰が居住するのだろうか。根室ですら僻地なのに、そこからさらにせいぜい週に1度の船便だけが頼りの離島(しかも小笠原と違って温暖でもない)にどうして住まなければならないのだろうか。北方領土返還のためにお金を使うくらいだったら北海道本土の交通インフラに投資する方が日本の居住者の利益になるのではないか。

また、現在北方四島に居住している人達をどうしたいのだろうか。彼らは日本語の読み書きはおろか話すこともできない。日本人の大半はロシア語を話せないし、キリル文字もろくに読めない。そのような状況でこの地域が日本に返還されたら、この地域に居住する人達に、ウクライナの民族主義政権下でのロシア語話者よりもはるかに苛酷な運命が待ち構えていることは明白である。ごく少数とはいえ全く異質な民族集団を受け入れて多民族国家として生きていく覚悟はあるのだろうか。移転補償金を支払って立ち退いてもらうのも一案だが、この地域の居住者にはソ連時代にウクライナから強制移住させられた人達もいるので、里帰りを斡旋するならウクライナ政府とも協議が必要である。

現在居住している人達が、言葉のハンディキャップを乗り越えてでも「日本人になりたい」と心から望むような魅力が今の日本にあるのだろうか。日本人は、ロシア人が羨むほど幸せそうな顔をしているだろうか。日本が領有するようになったら物質的な観点や精神的な観点からどれほど暮らしが良くなるのかを日本人が思い描いて現地に住む人の共感を得ただろうか。そもそも自分自身を幸せにすることすらできない人が他人を幸せにすることはできないので、まずは日本を魅力のある国にすることから始めるべきではないか。

目的が何であれ、もし本気で返還を望むなら、返還の目途がつく前であっても返還後のことを考えておかねばならない。我が国固有の領土であると主張するなら移行計画を隠す必要はない。返還後の生活について細かい部分まで具体的にイメージすることが大切である。もっともありふれた例でいえば交通法規を日本のものに移行させるにはどうしたらよいのだろうか。当面はロシア語と併記しなければ理解されないのではないか。日本の法規への以降のための周知期間が必要なのではないか。沖縄返還時と同様に一夜にして右側通行から左側通行に切り替えるなら、入念な準備が必要である。ロシアの運転免許保有者に対して無条件に日本の運転免許への移行を認めるのか、あるいは日本の交通法規の学科試験を課すのか。その試験はロシア語で受験できるのか。

公用語はどうするのか。日本語のみを公用語としたら現在の居住者は人として生きる術を失ってしまう。この地域のみロシア語との併用を認めなかったら現地の居住者の支持を得ることはできない。かといってロシア語を準公用語として認めたら、ロシア語を話せない人はこの地域で公務員になれない(カナダではフランス語を話せないと公務員になれない)。公用語の問題は行政へのアクセスの問題に直結するので常にセンシティブである。

人が住むために最低限必要な電力インフラを誰がどのように整備するのだろうか。日本の離島ではディーゼル発電が定番だが、安価なC重油を用いても60円/kWhくらいの発電コストがかかる。地熱発電や風力発電の方がまだコスト競争力がある。交通インフラはどうするのだろうか。根室から週1便の定期便で足りるのだろうか。さすがに択捉島から根室までは遠いが、航空便はどうするのだろうか。中標津空港まで飛行機が飛んでも全然ありがたくない。最低でも釧路空港、できれば新千歳空港か丘珠空港までの航空便が無ければ使い物にならない。ATR42-600の離着陸には1000mの滑走路が必要だが、既存の空港インフラはどの程度利用可能なのだろうか。空港を整備・拡張するためには広大な平地の造成が必要で環境負荷がかかる。どの程度の環境負荷が見込まれるのだろうか。空港にアクセスするための道路インフラはどうか。道路インフラが脆弱なら沿岸の船舶輸送も考えなければならないが、船舶での移動距離が長ければ長いほど航空輸送の時間的な優位は損なわれる。

この地域で漁業を行うためには漁師が何人必要なのだろうか。その手当はついているのだろうか。どの程度の漁獲量を見込んでいるのだろうか。それに必要な漁港のインフラの規模はどれくらいなのだろうか。取れた魚はどこに出荷するのだろうか。市場に輸送するまでの日数はどの程度を見込んでいるのだろうか。冷凍輸送するなら、そのための冷凍工場をどこにどの程度の規模で設置するのだろうか。

このような事項を明確にしていかない限り、現地に住む人達は返還後の生活に不安を抱くから返還を支持しないだろう。地元に住む人が支持しない返還なら、地元に住まないロシア人はもっと支持しない。

日本人から見ても北方領土を取り戻すのは大変だが、ロシア人にとっても北方領土を占有して維持しているのはそれなりに大変なのではないかと思えてくる。飛行機も船もサハリン経由だが、冬のオホーツク海は流氷があるし、飛行機も霧の多い季節には結構する。空港インフラも脆弱なので今でも70人乗りのプロペラ機しか飛べない。船はサハリンから1日かかる。そこまで不便な思いをして得られたものといえば、島の周囲の豊かな漁場のみ。農耕民族のスラブ人が望むのは農地だが、山がちな離島に農地なんてほとんど無い。冬季でも直接太平洋に出られるのは魅力的かもしれないが、港は鉄道と接続していなければ意味がないし、冬季には流氷によってウラジオストクとの行き来ができない。日本と敵対していなければウラジオストク宗谷海峡や津軽海峡を通過する方が楽である。北方領土は日本人にとっての小笠原のようなもので、領有権を手放す意思はないものの、交通インフラが脆弱で維持にコストのかかる島なのではないか。

ここ数百年間の歴史を通じて土地が希少資源だった時代には領土を獲得することにはそれなりの意味があったかもしれないが、人々の生活が豊かになれば人が住めるだけの生活水準を確保するのにコストがかかるようになるので、経済的に自立したエリアでなければむしろ重荷になる。生活水準が向上するにつれて出生率が下がるのと同様である。

2019年5月1日水曜日

それでも右ハンドル車のペダルレイアウトには問題がある

高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違いに起因する暴走事故がたまに発生している。時には人の命を奪う事故まで発生している。

本人はブレーキを踏んでいるはずなのにアクセルを踏んでしまうのは、本来ブレーキペダルがあるべき位置にアクセルペダルがあるからである。右ハンドルの日本で2ペダル車に慣れ親しんでいると当たり前すぎて気が付きにくいが、タイヤハウスの出っ張りを避けるために、アクセルペダルとブレーキペダルが左にずれている。この傾向はスペースに余裕のない小型車に顕著である。輸入車だと右ハンドルでの設計がろくに考慮されていないのでさらにひどい。

もちろん、慣れてしまえば気にならない。しかし、この慣れてしまえば気にならないというのが実は曲者である。健常者にとっては問題ないが、体の機能は徐々に衰えてきて、足首が思ったように動かなくなってくる。足首を左にひねってブレーキペダルを踏むつもりなのに、実際には十分に足首をひねることができずにアクセルペダルを踏んでしまう。本人が足首の動きの衰えを自覚していればもっと慎重な操作を期するのだろうが、自覚症状が無ければブレーキを強く踏むつもりで結果的にアクセルを強く踏んでしまう。年を取ると反射神経も衰えるので、誤操作に気づいてもすぐには修正できない。

誤操作のリスクをゼロにすることはできないが、足首を左にひねればブレーキ、右にひねればアクセルとなればブレーキを踏むべきときにアクセルを踏むリスクはだいぶ低減される。一方、アクセルペダルもブレーキペダルも左に寄っていると、「どの程度左に足首をひねるか」の違いでしかなく、足首をひねる量を定量的に正しく評価できないと誤操作することになる。しかも国産車の大半はアクセルペダルもブレーキペダルも吊り下げ式である。

もちろん、アクセルペダルとブレーキペダルが左に寄っているなら、右足も同じように左に寄せて、ブレーキペダル側にかかとを置けば解決する。しかし繰り返すがそれは健常者の論理であって、足首の動きもおぼつかない高齢者が無理やり右足を左に寄せ続ける姿勢を長時間安定して維持できると期待してよいのだろうか。

右ハンドル車でペダルが左に寄っていないのはマツダだけだが、「人を殺したくなかったらマツダに乗れ」というのではなく、他社も同様にすべきではないだろうか。他社が採用しないのは、前輪を前に出せばその分ボンネットが長くなり、全長が同じならその分室内が狭くなるからである。そうなるとせっかくのFF車の利点が損なわれる。特に日本の市場では車内が狭いのはものすごく嫌われる。しかし、人の命と車内の広さとどちらが大切なのだろうか。車に乗る上で人を殺さないことよりも優先されることなんてあるのだろうか。「もっといい車を」には「もっと人を殺さない車を」というのが含まれて然るべきである。

ちなみに、ペダルの踏み間違いに起因する誤操作のリスクはMT車の方が低い。特に今の高齢者はAT限定免許導入前に免許を取得しているのでMT車に慣れ親しんでおり、若い頃に習得した動作は衰えにくいので、MT車の方が誤操作のリスクが低い。一部の高齢車は「自分はこれしか運転できないから」という理由でMT車に乗り続けているが、それは正しい。

そもそもMT車は入れたギアの通りにしか動作しないし、停車時もNレンジ+パーキングブレーキだからブレーキペダルを踏み続ける必要がない分、踏み間違いのリスクが低い。万一ペダルを踏み間違えてしまってもMT車なら左足でクラッチを切ってしまえば暴走することはない。一方、AT車では停車中でもDレンジ+ブレーキだから、ブレーキペダルを踏む力が弱くなるとズルズルと前進してしまい、慌ててブレーキを踏むことになる。この時にペダルを踏み間違えると大変なことになる。

あいにくプリウスにはMT車が無いが、どうせ長距離乗らない高齢者がハイブリッド車なんて乗っても燃料代で元を取ることなんてできないのだから、安価でローテクで操作に癖のない普通のガソリンエンジン車の方が安全なのではないか。

2019年4月30日火曜日

中国製電気自動車が日本の軽自動車を駆逐する日

電気自動車に適した環境は、1日の走行距離が短くて、かつ動かない時間の長い使い方である。となると、街乗り用途の車が最も有利ということになる。特に田舎ではガソリンスタンドが急速に減少していて、給油のために遠出する必要が出てくる。電気自動車なら夜に自宅で充電すればよいので給油の心配がない。人の住んでいる所なら大抵高圧6.6kVの送電線があり、自宅には低圧単相100Vの引き込みがあるので、自宅での充電なら問題ない。三相200Vの方が充電時間が短くなる。最寄りの電柱から引き込めばよいのでさほど大がかりな工事ではない。今では原子力発電所がほとんど動いていないので安価な深夜電力は期待できないかもしれないが、今後洋上風力発電が増えてくると、再び深夜に電力が余るようになるので、安価に充電できるようになるだろう。

そういうことはとっくに他の人が考えているが、それでも電気自動車が普及しない原因はコストにあるとのこと。いまどきモーターやインバータはさほど高くないが、バッテリーは高い。これでも昔に比べればだいぶ安くなったが、それでもガソリンエンジン車に対してコスト競争力が無いとのことである。

しかしもし中国で電気自動車が普及するようになって、コスト競争力のある電気自動車が大量に日本に入ってきたらどうなるか。たしかに中国の電気自動車メーカーが日本の軽自動車規格に適合する車種を量産する動機は無いかもしれない。しかし軽自動車規格のメリットは税金が安いことくらいであって、必ずしも新車価格が安いわけではない。今や軽自動車の売れ筋の値段は、Bセグメントのヴィッツやフィットのガソリンエンジン車と同じくらいの値段である。電気自動車なら我慢して軽自動車規格に収めなくても税金が安いのだから、わざわざ軽自動車専用の生産ラインを立ち上げるまでもない。

中国の電気自動車なんて日本で一体誰が買うのかと思う人もいるだろう。それに日本の軽自動車は日本人の好みに合わせて徹底的に作り込まれている。狭い空間を広く使えるようにする工夫や、痒い所に手の届く収納スペースの配置などについては他の追随を許さない。一方、中国の自動車メーカーは急速に技術をつけている。中国には欧州や米国や日本から様々な技術が入ってきているし、様々な試行錯誤がされている。今やボルボのオーナーもメルセデスベンツのオーナーも中国企業である。若い人が多い国なので新しいことに積極的に挑戦する。そのすべてがものになるわけではないだろうが、その中でいくつかがものになれば、それらが急速に広まるだろう。

2019年4月7日日曜日

Newdaysのコーヒー

コンビニのコーヒーはすっかりおなじみになったが、JR東日本の駅の売店であるNewdaysでもコーヒーが売っていることをつい最近まで知らなかった。調べてみたら2014年からあったようである。2019年4月1日現在の取扱店舗一覧によると、地方では主に特急停車駅が対象だが(というか主要駅以外は無人駅ばかりだし)、首都圏では通勤電車しか停車しない駅でも扱っている。買ったコーヒーをどこで飲むことが想定されているのだろう。また、同じくJR東日本グループのベックスコーヒーショップとどう棲み分けているのかも気になるところである。店内で飲食するならベックスコーヒーショップしか選択肢がない反面、持ち帰りならNewdaysのコーヒーでも十分に見える。

新幹線の乗車待ちの時間にNewdaysでコーヒーマシンを見かけたので、早速購入してみた。紙コップを買うところまでは普通のコンビニと同じなのだが、駅の売店はスペースが狭いため、コーヒーマシン周辺のスペースが狭く、砂糖やクリームを入れるのに難儀する。しかも長距離列車への乗車前には比較的荷物が多いのでなおさらである。

車内でコーヒーを飲むべく持ち込もうとすると、荷物を持ちながらさらに片手でコーヒーカップを持ってホームまで移動することになる。いくら蓋がついているといっても、水平を保たなければこぼれてしまう。できることなら、乗車して席についてから改めてホーム上のNewdaysでコーヒーを買って持ち込めれば便利なのだが、始発の特急列車でなければそんな悠長なことはできないし、東京駅折り返しの新幹線だと発車4分前くらいにならないとドアが開かないので、荷物を置いて着席したらすぐに発車してしまう。駅で買って車内に持ち込むというのは口で言うほど簡単なことではない。

これが車移動なら荷物を置いたまま身軽な状態で買物できるので、両手が塞がることがないし、座って休憩する場所がなければ車の中で飲み物を飲むこともできる。

列車に持ち込むとなると密閉できるペットボトルや缶の方が圧倒的に取り扱いが楽である。車内で温かいコーヒーを飲みたかったらやはり車内販売の方が楽なのだが、残念ながら2019年3月16日から車内販売が大幅に縮小されてしまった。車内販売の残る列車でも飲み物くらいしか購入できない。

コーヒーの味そのものはまともで、ドトールと共同開発しているドリップ式である。

もしかして大糸線糸魚川南小谷間はえちごトキめき鉄道に移管した方がよかったりしないだろうか

大糸線の南小谷糸魚川間はJR西日本の孤立区間である。キハ120が2両糸魚川に常駐して、単行運用を2運用まかなっている。かつてはシュプール号の客車列車が関西方面から大糸線経由で白馬に乗り入れていたこともあったが、北陸新幹線が開業して北陸本線の金沢直江津間が経営分離されてからはJR西日本の車両が大糸線に直通することもない。

一方、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインは直江津から泊までキハ122を8両保有して直江津泊間で単行で運行している。これに加えて観光車両の雪月花の2両編成があり、これは気動車なので非電化区間にも乗り入れることができる。糸魚川駅の在来線部分を管理しているのもえちごトキめき鉄道で、JR西日本が間借りしている形になっている。

このままJRに任せていても最低限のことしかしないので、それくらいならいっそのことえちごトキめき鉄道に移管した方がよいのではないだろうか。えちごトキめき鉄道はすでにこのエリアで気動車を運行しているし、大糸線を引き取っても単行2運用が増えるに過ぎない。たった2運用のためにJR西日本の従業員を常駐させるよりも、日本海ひすいラインと一体で運用した方が運用効率が良い。それに、えちごトキめき鉄道は観光車両の雪月花を各地に貸し出しており、北越急行に乗り入れたりしなの鉄道の上田まで乗り入れたりしているし、大糸線にも乗り入れている。スキーシーズンには北陸新幹線に接続して白馬まで乗り入れてもよいのではないか。えちごトキめき鉄道の方がこの地域の鉄道を便利にするために努力しているように見える。

えちごトキめき鉄道に移管した方がよいのではないかと思うもう一つの理由は沿線の治山治水である。大糸線の糸魚川南小谷間は姫川に並行しているが、姫川は悪名高い暴れ川で、大糸線も何度も被災して不通になった。並行する国道148号も強固なスノーシェッドによって守られている。既存の設備で運行するだけならさほど経費がかからないが、被災するたびに莫大な復旧費用をかけている。JRだからまだ復旧できているものの、地方私鉄だったら1度の被災で廃止になっていていもおかしくない。しかし、JR東海が名松線復旧の際に主張していたように、沿線の治山治水は本来は県の責任である。糸魚川南小谷間の鉄道を維持する上で最大の障害は水害なので、治山治水に責任を持つ新潟県が主導で鉄道を維持すべきではないか。