肉体は男性だけれども性自認は女性だという人は、どうしてステレオタイプ的な女性を演じようとするのだろう。仮に性自認が女性だとしても、なぜ髪を伸ばすのだろう、なぜスカートを履くのだろう、なぜ女性の体を美しく見せるための技法を男性の体に無理やり当てはめようとするのだろう、なぜ女性用の更衣室や浴室を使おうとするのだろう、なぜ女性用のトイレを使おうとするのだろう。
本来、自分の体を使ってどのように表現するかは各人の自由であるが、そうはいっても身体は少なくとも顕在意識レベルでは与件なので、その体を美しく見せるような表現を選ぶ傾向がある。通常、おっさんが女装すると、男性と女性の悪い所を組み合わせたようになってしまい、残念ながら似合わない(似合えばもっと表現の幅が広がるのだが)。それは、女性用の服は女性の体の魅力を引き出すように作られており、男性の体の魅力を引き出すようにはできていないためである。
内面の物の考え方は身体を使った表現とはまた別の問題で、見た目が男性であっても女性的な考え方の人もいれば、その逆もいる。それも各人が好きなようにすればよいというだけのことである。男性100%という人も女性100%という人も滅多にいなくて、各人の中で男性的な思考もあれば女性的な思考もあり、その割合が人によって異なるだけのことである。
性別によらず誰を好きになるかも本人の自由。当然のことながら相手も同様に自由なので、双方のニーズがマッチしない限り好きになる以上のことをするのは難しい。同性愛だろうと異性愛だろうと相手の意思を尊重しなければならないのは一緒である。しかし、内面でどのように思おうとそれは本人の勝手。
ラベルは人の本質ではないのだから、ラベルにこだわらずに、自分の好みに応じて自然体で振る舞えばいいのにと思う。
日本人にはあまり実感がないだろうが日本はそういう意味ではなかなか自由な社会なのだが、米国は意外と堅苦しくて、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきという強固な価値観が根付いている。米国では男性といえばゴリラみたいなのが尊ばれる(もっとも、ゴリラは自分が一番偉いと思っているので自分のことをゴリラとは思っていない)。「男だったらゴリラになれ、ゴリラに非ずば人に非ず」と言われてしまうと、「ゴリラなんて嫌だ」と思う人がいても無理はない。大抵の人はそこで「ゴリラではなく人間がよい」と思って各人に心地よい表現を選ぶものだが、男性である限りゴリラになりきれないとゴリラに迫害されるので、「そんな男性なんで嫌だ」ということになってしまい、さらに一部の人は「男性でなければ女性」という極端な思考になってしまう。「左翼が嫌だから右翼になる」「共和党でなければ民主党」みたいな二元的な思考である。
世の中必ずしもゴリラが尊ばれる社会ばかりではないのだから、「男性」という檻が嫌なら檻から出ればいいのに、どうして「女性」という別の檻に入りたがるのだろうというのが冒頭の素朴な疑問である。檻の外から眺めれば、二元性の檻の中を行ったり来たりしながら不毛な争いをしているだけに見える。
既存の「男性」「女性」という檻に加えて、最近では既存の檻では満足できない人向けに新しい檻がいくつか作られていて、人はいずれかに該当するだろうからどれかの檻に入れと言われているように聞こえる。そして、どの檻もそれぞれ不自由にできていて、さらにそれぞれの檻同士でいがみ合うように仕向けられている。それが嫌なら檻から出るしかない。