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5月, 2019の投稿を表示しています

なぜ一人で旅行するのか

個人が何をしようと本人の勝手なはずなのに、世の中には「なぜ一人で旅行するのか」をいちいち詮索する人がいるらしい。そういう場面に備えて回答を用意しておいたので、どんどん撃退してほしい。よく考えれば一人で旅行する理由はきちんと存在するのだが、普段一人で旅行する人はそれがあまりにも当たり前なのでいちいち意識しないのではないだろうか。 平たくいえば、「一人で移動しても問題ないくらいに安全である」「旅行とは旅先でお金を使う行為であり、そこには人との接点があるので別に寂しくはない」の2点である。 1.一人で旅行しても問題ない理由 エベレストに登る際に一人というのは危険だろう。エベレストでなくても、一人で冬山に登るのはそれなりにリスクがある。何かあったときに周りに助けてくれそうな人が誰もいなければ命にかかわる問題である。これは旅行に限った話ではなく、鉄道で乗務員がワンマン運転できるのも相応のバックアップ体制があってのことで、例えば飯田線の秘境区間では何かあったときに備えて車掌が乗務している。仕事で危険な場所(例えばガスが充満している所)に立ち入る場合にも必ず複数で行動する。 そこまで極端な状況でなくても、言葉や交通法規や切符の買い方のわからない国で一人で移動するのはリスクなので、そういう状況に対応できる人は限られているだろう。しかし日本人が日本の公共交通機関を利用したり日本の公道を走行したりする際には、助けを求められる人が必要というほど危険ではない。 宿泊の際にも、日本の大手のビジネスホテルチェーンで泊まる程度だったら犯罪の被害にあうことを想定した対策は必要ないし、寝ているときに野生動物に襲われるおそれもない。昔の旅館では一人客が断れれる場面もあったようだが、ビジネスホテルではシングルルーム主体なので一人で宿泊しても問題ない。 一人で車で移動する場合には、一人だと自分で運転し続けなければならないので、複数人で運転を交代する場合に比べて不利ではあるが、米国ならまだしも日本は車移動でそんな長い距離を移動する必要に迫られるほど国土は広くない。高速道路網の発達した欧州では、一人で1日に往復で1000km走るくらいはざらだが、日本では個人が車で1日に600km以上移動する場面なんてそんなに無いのではないか。きちんと休憩を取りながらなら一人でも運転できるので、予め時間

子世代所得連動型社会保険

少子高齢化が進むと高齢者を支えるための現役世代の負担が増大すると言われている。たしかに困窮する人に死ねとは言えないので誰かが支えてあげるに越したことはないが、その一方で、支える側が困窮して日々の生活もままならなくなるのもおかしい。また、高齢者を支えるための原資は現役世代の稼ぎだが、現役世代が生きていけなくなってしまっては元も子もない。所得再分配には利害の対立が伴うが、そういうときにはバランスが大切である。となると、社会保険(主に公的年金と医療保険)の現役世代の負担比率に対して一定の上限を設ける必要があるのではないか。 そこで、社会保険の支給額の原資を世代別(コホート別)に区切って、親世代の社会保険の支給額を子世代の総所得の一定割合とするのはどうだろうか。親子間の年齢差をいくつに設定するかについては議論の余地があるが、人口統計上は30歳くらいである。すなわち、60歳での社会保険支給額の原資は30歳の総所得に一定の係数を乗じたもの、70歳での社会保険支給額の原資は40歳の総所得に一定の係数を乗じたもの、90歳での社会保険支給額の原資は60歳の総所得に一定の係数を乗じたもの等である。各世代ごとの係数に関しては、需給をマッチさせるためにある程度調整が必要かもしれない。 まず一つ目の理由だが、30年の年齢差を設けると社会保険の需要と負担能力とが意外とマッチする。30歳の所得はまださほど多くないが、60歳くらいであればまだ働ける人が多い。40歳になると多少は所得が増えてくるし、さすがに70歳で働くのはつらいので社会保険に頼りたい。80歳になれば医療費もかかってくるが、その頃には50歳の所得も増えているだろう。60歳の所得は減少するし、むしろもらう側に転じる時期だろうが、90歳で生きている人はほとんどいないので問題ない。 社会保険支給額の原資を子世代の所得と連動させるもう一つの理由は、親世代が子世代の所得増大に責任を取ってほしいからである。親世代は子世代の教育に責任を負っているのだから、子世代が稼げるように教育投資してほしい。また、50歳60歳で逃げ切るために20代30代の若者の所得を犠牲にして稼ぐ力を損なえば、将来自分がもらえる社会保険の額に跳ね返ってくるようにすることで、若者からの収奪に対する抑止力としたい。 少子高齢化が進むと高齢者の政治的影響力が強くなり、

真の成果主義と偽の成果主義

日本では西暦2000年頃から2010年頃にかけて大企業を中心に「成果主義賃金」というものが普及していった。ではその結果労働生産性が向上したかというと、データの上では労働生産性向上は僅かだし、マクロデータでもバブル崩壊以降の成長率の低下は全要素生産性の低下で説明できてしまう。現場の感覚レベルではそれ以前から「成果主義」が成果に寄与していないのではないかという疑問があった。従業員意識調査においても「成果主義」が働きがいに関する指標を悪化させるということが知られていた。成果を志向するはずの人事制度がなぜ成果に貢献しないのだろうか。 日本企業で導入された「成果主義」の中核をなすのは期初の目標設定と期末の評価である。期初に様々な項目から成る目標を従業員が設定し、直属の上司との面談によって承認を得る。期末になると設定された目標の達成度を従業員が自己評価し、それをもとに直属の上司が面談の上で成果を決定する。成果を評価するためには目標が定量化されていなければならないので、目標設定は、KPIという名目で無理やり定量化された目標をでっちあげることから始まる。 この手法はもともと米国企業のホワイトカラー労働者向けのものである。米国企業のホワイトカラー労働者の特色は、1)業務や成果測定が契約ベースであり、詳細な労働契約が定められていることと(契約書は500ページくらいで、弁護士のレビューが必要)、2)採用や評価に関する全権を直属の上司が有しており、上司が自己の成果を出すために人件費をかけて部下を雇用していることの2点である。 ひるがえって日本企業では1)労働契約が存在せず、労働者のプールに対して会社が一方的にルールを決めて個々の従業員に業務を命じたり役職や給与等級を決定したりする、2)採用は人事部による一括採用で、直属の上司は人事に関する裁量を有さない、という根本的な違いがある。制度設計においては、細部の微妙な違いが全く異なる結果をもたらすが、前提条件が根本的に異なれば結果が全く異なるのは火を見るよりも明らかである。にも関わらずそのようなことに誰も疑問を抱かないのは、日本の大企業のサラリーマンが外の世界を知らないからである。 日本企業の新卒一括採用が悪いというわけではなく、うまく機能すれば米国のような極端な学歴主義(ひいては機会の不平等)や欧州のような若年失業を回避できる。

それでも右ハンドル車のペダルレイアウトには問題がある

高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違いに起因する暴走事故がたまに発生している。時には人の命を奪う事故まで発生している。 本人はブレーキを踏んでいるはずなのにアクセルを踏んでしまうのは、本来ブレーキペダルがあるべき位置にアクセルペダルがあるからである。右ハンドルの日本で2ペダル車に慣れ親しんでいると当たり前すぎて気が付きにくいが、タイヤハウスの出っ張りを避けるために、アクセルペダルとブレーキペダルが左にずれている。この傾向はスペースに余裕のない小型車に顕著である。輸入車だと右ハンドルでの設計がろくに考慮されていないのでさらにひどい。 もちろん、慣れてしまえば気にならない。しかし、この慣れてしまえば気にならないというのが実は曲者である。健常者にとっては問題ないが、体の機能は徐々に衰えてきて、足首が思ったように動かなくなってくる。足首を左にひねってブレーキペダルを踏むつもりなのに、実際には十分に足首をひねることができずにアクセルペダルを踏んでしまう。本人が足首の動きの衰えを自覚していればもっと慎重な操作を期するのだろうが、自覚症状が無ければブレーキを強く踏むつもりで結果的にアクセルを強く踏んでしまう。年を取ると反射神経も衰えるので、誤操作に気づいてもすぐには修正できない。 誤操作のリスクをゼロにすることはできないが、足首を左にひねればブレーキ、右にひねればアクセルとなればブレーキを踏むべきときにアクセルを踏むリスクはだいぶ低減される。一方、アクセルペダルもブレーキペダルも左に寄っていると、「どの程度左に足首をひねるか」の違いでしかなく、足首をひねる量を定量的に正しく評価できないと誤操作することになる。しかも国産車の大半はアクセルペダルもブレーキペダルも吊り下げ式である。 もちろん、アクセルペダルとブレーキペダルが左に寄っているなら、右足も同じように左に寄せて、ブレーキペダル側にかかとを置けば解決する。しかし繰り返すがそれは健常者の論理であって、足首の動きもおぼつかない高齢者が無理やり右足を左に寄せ続ける姿勢を長時間安定して維持できると期待してよいのだろうか。 右ハンドル車でペダルが左に寄っていないのはマツダだけだが、「人を殺したくなかったらマツダに乗れ」というのではなく、他社も同様にすべきではないだろうか。他社が採用しないのは、前輪を前に出せばその