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4月, 2013の投稿を表示しています

中野駅配線改良案

【現状での課題】 発着番線がバラバラでわかりにくい。 緩行線新宿方面行きは2番線または5番線発。三鷹方面へは1番線発、3番線発、または6番線発。東西線は4番線または5番線発。次の列車の発着番線を階段下の電光掲示板でいちいち確認しなければならない。 対面乗り換えができない。 緩行線と快速との対面乗り換えができないばかりでなく、緩行線と東西線との対面乗り換えもできない。緩行線中野止まりの列車から三鷹方面への乗り換えは2番線から3番線への移動が必要。東西線中野止まりの列車から三鷹方面への乗り換えは4番線から1番線への移動が必要。緩行線上りから東西線への乗り換えは5番線から4番線への移動が必要。緩行線上り東西線直通列車から緩行線上り新宿方面への乗り換えは5番線から2番線への移動が必要。すべて階段の昇り降りが伴う。 中野駅での乗り換えの不便さから派生する杉並三駅問題。 高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪から新宿方面に行く場合、中野駅で快速に乗り換えるのも、東西線直通列車から緩行線に乗り換えるのも不便であり、新宿志向の強いこれらの駅で快速が通過すると極めて不便になる。そのため、快速列車がこれらの駅に停車せざるをえなくなり、快速の所要時間が増大し、遠方からの旅客の負担になっているのに加え、特別快速や特急のダイヤも制約される。 【背景】 緩行線の車庫の存在。 大正時代に両国から中野までの線路が建設されて以来、中野が総武線からの乗り入れ列車の終点であり、車庫も中野にあった。現在は検修機能は三鷹に集約されているものの、留置線は引き続き使用されている。なお、三鷹の車庫はもともとは快速線用として建設されたもので、豊田に快速線の車庫ができた際に緩行線の車庫になった。 総武線側と中央線側の旅客数の違い。 比較的混雑する総武線側は列車本数が多く、しかも都心側で折り返し可能な駅が中野と三鷹しかない。一方、中央線側は乗客数が少ないため、輸送力を調整する必要がある。現状では中野を境に輸送力に大きな差をつけているが、緩行線の利便性を向上して乗客数を増やせば中野での折り返しが必要なくなる。 東西線と緩行線の両方に中野駅折り返し列車が存在する。 そのため、緩行線の2面3線のホームが東西線の島式ホームを挟み込む形になっている。2番線は主に中野での折り返し列車向けに使われているが、車庫への入出庫用

超訳This is a pen.

中学英語の最初に出てくる文は、 "This is a pen." "Is this a pen?" "Yes, it is." というものだが、これは統語論的には間違っていないものの、意味論的には謎が多い。通常の脈絡で考える限り意味不明である。目の前でペンを見せて「これはペンです」なんて言ったら会話としておかしい。一体どんな脈絡だったら意味をなすのだろうか。 「おい、これ見てみろよ。」 後ろからつんつんされながら声をかけられた。面倒だったので振り向かずにとりあえず聞いてみた。 「これって何だよ。」 「まあいいから、とにかくこれを見てみろって。」 しぶしぶ振り向くと、手のひらに子猫が乗っかていた。なんだかかわいい。猫はかわいいけど、そういう風に勿体ぶって見せられるのは気に食わない。 「猫がどうかしたのかよ。」 「これ、何だと思う?」 どう見ても猫にしか見えない。こいつ何言ってんだ。まあとりあえず話に付き合ってやろうか。 「どう見ても猫だろ。猫じゃなかったら一体何なんだよ。」 「こいつはな、実はペンなんだよ。」 はあ?こいつ、変なクスリでもキメて頭がイカれたんだろうか。しかし一体何のクスリをキメたらこんな風になるんだ。それを考えだすとキリがないので、とりあえず目先の疑問から解決することにした。 「これがペンだって?」 そう言いながら脳内で3回「バーカバーカバーカ」と繰り返した。 「そうよ。」 そうよと言われたって、やはりどう見ても猫にしか見えない。敢えてそういうことを言うことからして、何らかの意図がありそうだが、それが何の意図だか考えるのは面倒なので、とりあえず常識的な質問を返した。 「それのどこがペンなんだよ。もしそれがペンだとしたらどうやって文字を書くんだよ。」 その質問を待ち構えていたかのように、平然と言い放った。 「じゃあ、紙出しな。」 あまりきれいな紙を出すのも勿体なかったので、手元にあったコピーの裏紙を渡した。というか、そういうつもりだったら最初から紙くらい自分で準備しろ。 おもむろに紙の上に猫を置く。ふにふにしながら動かしていると、そこに文字が浮かび上がってきた。ペンの定義を思い起こすと、こいつは確かに国語的にはペンだ。こうして実演されると、目の前

物不足で苦労を経験すると物を大切にするようになるか

世間一般では、「貧しい生活を経験した人は物を大切にする」と信じられている。物不足で苦労した人をねぎらう美談として扱われているのか、誰も表立って否定しない。しかし戦時中や戦後の物不足を経験した世代の行動を観察していると、もし本当に物を大切にしていたら決してしないような行動が見受けられる。 例えば、買ってきた生鮮食料品を冷蔵庫に入れっぱなしにして腐らせる。食べきれないほどの料理を作って残して捨てる。電子レンジやオーブントースターで温めたものをほったらかしにしてまずくしたり食べられなくしたりする。食べ物を大切にするなら多少まずくなっても我慢して食べるだろうが、そういう人に限って食べずに捨てる。年を取れば物を忘れやすくなるとはいえ、これが100万円の札束だったらほったらかしにするだろうか。100万円の札束はほったらかしにしないけれども食べ物はほったらかしにするということは、お金は大切にするけど食べ物は粗末にするということである。 使いもしないものを貯め込んで、使うことも捨てることもしない。物を持っているときの選択肢は4つある。最終的には「使う」「売る」「人にあげる」「捨てる」のどれかに該当する。使わないなら売るか人にあげるか捨てるかするしか選択肢が無いはずなのに、人に与えることもしなければ手放すこともしない。使わないものを手放さないのは物を大切にしていることにならない。必要な人に使ってもらう方が物を大切にしている。生鮮食料品はいつか腐るが耐久消費財は陳腐化しても腐らないので往々にしてゴミ屋敷になる。こういう行動は生まれた頃からそこそこ豊かだった若い世代よりもむしろ幼少期に貧しい生活を経験した老人世代によく見られる。 しかしその一方で、物を大切にする人だってもちろんいる。そうでなければ「貧しい経験をした人は物を大切にする」なんてことが疑問も無しに受け入れられるはずがない。同じような経験をしながら、なぜこのような違いが生じるのだろうか。 物不足で苦労したとき、人が抱くであろう観念には2種類ある。1つ目は「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」というものであり、2つ目は「物が足りないせいで節約させられている」というものである。前者の場合、物があることに感謝して大切に使おうとする。これは通説通りである。一方後者の場合、「物が足りていれば節約しなくてよい」「物を

軽便鉄道規格の復活を

普通鉄道の規格は年々高規格化している。新設鉄道では踏切の設置が認められないといった土木に関する規格の向上とか、ATSの機能要件の追加といった保安設備の規格向上である。在来線といえども時速130km運転をしていたり、2分間隔の高密度運転をしていれば、安全に関する要求水準が高くなるのは当然のことである。踏切の中に取り残されたまま時速130kmの電車が接近したらまず助からないし、ヒューマンエラーで曲線通過速度が大幅に超過したら大惨事になる。正面衝突はおろか追突であっても大事故になる。側線の車両が本線にはみ出して通過列車と接触しても大事故になる。混雑するホームから乗客が転落したら助からないので、ホームドアも必要だろう。一部車両がホームからはみ出して停車してドアカットするのも、万一車内で火災が発生したら脱出できずに多数の死傷者を出すことになる。普通鉄道といえども、蒸気機関車が時速40km程度で走っていた時代と比べればかなり高規格化している。 その一方で、JRのローカル線や地方私鉄では車両も地上設備も昔のままである。昔と変わらず時速40km程度で走っている路線で踏切を全廃するのは現実的でないし、いざとなったらすぐに停止できる程度の速度で走っているなら目視でもある程度対応できる。普通鉄道とは違うが併用軌道上の路面電車は自動車と同様に目視確認である。低速で運転している限り、遠目に見てレールが波打っているくらい軌道の精度が低くても安全には問題ない。通過列車が無ければ構内踏切があっても安全上問題ない。そのような路線でJRの幹線や大手私鉄と同等のレベルを要求したら費用がかかりすぎて、路線や会社そのものが無くなってしまう。現状の法運用ですら鉄道では保安設備の負担が大きくてローカル線が次第に廃止されているのだから、幹線鉄道に合わせてルールを強化していったらいずれ地方私鉄は全滅しかねない。 しかし法律は規格の高い側に合わせて作らなければならないので、低規格のローカル線では特例ばかりになる。しかし特例で認めるというのは裁量行政である。法律は一定の制度趣旨に即して制定されるので、制度趣旨を尊重しないのは問題だし、法律が制度趣旨に合致しないなら、法律を改めるべきだろう。特に安全基準は一定の科学的根拠に基いて策定されるものなので、それならば、低規格の路線であっても一定の科学的根拠に基づく明文化

名前を取り戻せ

会社に勤めている人はごく当たり前に本名で仕事をし、名刺にも本名が書かれていることだろう。しかしその結果、個人として行ったことが会社の看板に傷をつけることもありうる。法に触れることをしたり著しく公序良俗に反することをしたり対外的に所属組織を公然と批判すれば当然そうなるが、それに限らず、個人としての何気ない発言もまた、会社の看板に傷をつけることになりかねない。物事を悪意的に受け止めようと思えばいくらでも可能だからである。 なので個人として気軽に発言したかったら本名を伏せるのが最も安全である。しかしそうなると会社に名前を奪われたようなものである。名前を人質に取られて個人として当然の権利も行使できないとなったら、それではまるで会社の奴隷ではないか。個人としてペンネームを用いるのは本人の自由だが、対外的に所属組織を伏せてもなお本名を用いることが会社の看板に影響を及ぼすものとして制限されるなら、それは「仕事は仕事、個人は個人」という公私の区別を越えた人権侵害である。 そのような事態が発生することの根本原因は、従業員が本名で仕事をしていることである。そもそも、目立つ立場の人は本名とは別に仕事用の名前を使って仕事をするものである。芸能人は芸名を使って仕事をするし、文筆業者はペンネームを使って仕事をする。仕事用の名前はあくまでも仕事人格を表すものであり、本名は個人の人格を表すものとして区別されている。仕事の内容の違いによって複数の芸名や複数のペンネームを使い分けることもある。それほどまでに名前は人格を表すのである。自営業者の場合は本名で仕事をする傾向があるが、それはおそらく自らが経営者であるため、仕事人格と個人の人格とを使い分ける必要があまり無いからであり、新興宗教の教祖のようにビジネスネームで活動することだって可能である(なので、本名を会社に奪われるのが嫌なら自営業者になるのが一番手っ取り早かったりする)。 ネットによって情報伝達のスピードと範囲が拡大し、本名での言動が会社やステークホルダーに影響を及ぼすものならば、それは芸能人並のネームバリューがあるということだから、当然ビジネスネームがあって然るべきである。そもそも仕事をするのに本名は不要である。あくまでも組織の方針に沿って所定の仕事をすればよくて、その従業員の名前が何であろうと本質的ではない。他の人と区別がつくなら

効率賃金仮説ふたたび

今はもうそれほどではないかもしれないが、高度成長期の日本の大企業は男性正社員が家庭を持つことにポジティブで、今や死語だがOLという名の事実上の花嫁候補まで会社が提供していた。住宅の取得も奨励していた。その一方で、家庭を持たない従業員に対しては一人前の人間でないとか、家庭を持てないのは人格的に問題があるからだといった人格攻撃がまかり通っていた。ではそういう会社では家庭を持ったら家族と楽しく過ごせるかというと全然そんなことはなくて、日本の企業は始業時刻には厳格な反面終業時刻にはいい加減で、その結果長時間残業が当たり前で、家族と一緒に夕食を取ることすらままならなかった。有給休暇の取得も容易でなかったので、盆暮れのごく限られた時期にアリバイ的に「家族サービス」をするのがならわしだった。 一体何のための家庭なのだろうか。もし企業が本当に従業員のことを思いやっているのなら、どうして家庭を持たせた挙句その家庭から引きはがずようなことをするのだろうか。このような一見不可解な企業の振る舞いにどのような説明を与えることができるだろうか。 まず、家庭を持ったり住宅ローンを組んだりすると、年収からして不釣り合いなほどのキャッシュアウトにコミットすることになる。住宅ローンで年収の数倍ものレバレッジをかけるし、利息の支払もあるから、実際には年収の10倍くらいのキャッシュアウトにコミットすることになる。住宅ローンを完済するまでは30年近くかかり、えてして定年近くになって完済するか、住宅ローン残高を退職金で完済するかになる。企業がこんないびつな投資をしたら銀行からお金を借りられなくなるのに、従業員に対しては当然のこととして奨励する。住宅以外にも家庭を持てばいろいろお金がかかる。実質一人分の給料で数人が暮らせばお金がかかって当然で、特に子供の教育費がかかる。その結果家庭を支えている父親は月数万円の小遣いしか与えられなくなる。 家庭にこれだけの投資をさせておきながら、その家庭には滅多に戻らせない。せっかく家族のために身を粉にして働いても、家庭では家庭を顧みない父親として蔑まれる。なんてひどい仕打ちなのだろうか。 このような巨額のキャッシュアウトにコミットすることの当然の帰結として、会社を辞めるのがとても難しくなる。既に巨額のキャッシュアウトにコミットしている結果、同等かより有利な条件で

一票の格差の是正方法について(その2)

(その1) では、一票の格差の是正方法について以下の5つの方式を列挙した上で、1と2の方式についてそれぞれの長所と短所を見てきた。 選挙区の区割りの変更 有権者人口に応じて議員の議決権に係数をつける 地域別選挙区を廃止して年齢別選挙区等の他の切り口で選挙区を設ける 選挙区を無くして全国区のみにする 議員選挙を廃止して直接民主制にする (その2)ではさらに踏み込んで、情報技術を活用することによって地域別選挙区にとらわれない方式の実現可能性について見ていきたい。3の方式から順にそれぞれの長所短所を見てみよう。 3の方式では、「そもそもなぜ地域別選挙区なのか」ということから疑ってかかる。従来情報技術が未発達だった頃には、政治活動の手段は集会を開いたり演説したり印刷物を配布したりすることに限られていた。そのためには政治活動のエリアをある程度狭くする必要があった。しかし今では情報伝達の手段が多様化しているため、敢えて地域別に選挙区を区切る必然性が乏しくなっている。例えば日本維新の会の橋下徹共同代表は主にTwitterで発言しており、全国にフォロワーが100万人近くいる。YouTubeのようなネットでの動画配信も可能だし、ニコニコ生放送のように視聴者のコメントをその場でもらいながら生放送することだって可能である。SNSも昔とは比べ物にならないほど充実している。文書の配布だけならウェブ上で簡単にできる。直接対面する場も必要だろうが、頻度が低ければ地理的な近さの優先順位はさほど高くない。 では、地域別以外の選挙区を導入することの長所短所を見てみよう。長所としては、 地域以外の様々な属性を反映させることができ、多様な民意を反映させることができる。有権者の属性には地域だけでなく年齢、性別、職業、所得水準といった様々なものがあり、様々な利害の対立軸がある中で、居住地域はそのうちの1つでしかない。地域という特定の属性のみに偏った選挙区は往々にして国益について論じる国政の場を地域への利益誘導の調整の場としてしまう。例えば、社会保障に関しては世代間の利害対立なので年齢別選挙区の方が妥当。 一方、短所もある。主に選挙実務に関するものである。 選挙管理委員会は地域別に編成されているので、有権者名簿を確定する作業が事務的に煩雑。しかし、選挙にお

一票の格差の是正方法について(その1)

一票の格差の是正というと、従来は選挙区の区割り変更という形で行われてきたが、これは過疎地の選挙区を広げ、過疎地の議席を減らすという形で行われてきたため特に過疎地選出の議員に負担が大きく、一票の格差を迅速に是正するには難がある。 一票の格差を是正する方法としては以下のようなものが挙げられる。 選挙区の区割りの変更 有権者人口に応じて議員の議決権に係数をつける 地域別選挙区を廃止して年齢別選挙区等の他の切り口で選挙区を設ける 選挙区を無くして全国区のみにする 議員選挙を廃止して直接民主制にする 1以外は現時点で採用されていない方法ばかりだが、それは情報技術を活用しない限り事務コストが高すぎて実現可能性が無かったからである。しかし情報技術の発達によって実現可能性が増してきたので、そろそろ検討してみてもよいのではないだろうか。ここでは1から順にそれぞれの方式の長所と短所に触れてみよう。 まず、1の選挙区の区割りを変更する方式についてだが、長所は法律によって各選挙区の地域を明示しやすいことと、情報技術を一切必要としないことである。短所は以下の通り。 区割りの変更による対処では一票の格差が残る。既存の自治体の区割りをベースにする限り、格差を最小限に止めようと努力しても2倍くらいの格差が生じる。 そもそも地域の人口は常に変化するので、ある時点で格差を是正しても、人口が変化したらまた格差が発生する。場当たり的な区割り変更をしても抜本的な解決にならない。実際、今後は過疎地で急激に人口が減少することが予測されているので、区割り変更を繰り返さなければならない。 過疎地の選挙区が広大化する傾向があり、政治活動が地理的に難しいのみならず、新規に選挙区となった地域で新たに地盤を築くための労力が必要になったり、今まで選挙区だった地域が選挙区でなくなることによってそれまでその地域に地盤を築くための努力が無駄になる。区割りを頻繁に変更するとさらにその影響が大きくなる。 特に3は過疎地での議席の減少以上に候補者に負担をかける。選挙区の区割り変更はただでさえゼロサムゲームなのに、政治活動の負担も増すとなればマイナスサムゲームであり、これでは一票の格差の是正が進まないのも無理もないことである。そのため、裁判で選挙無効にならない程度の遅々としたペースで選挙区の区

おサイフケータイ無しの生活は可能か

iPhoneを導入する上で最も制約になるのは、iPhoneではおサイフケータイを利用できないということである。おサイフケータイを利用することを前提にするとガラケーとの2台持ちになってしまうが、どうせガラケーを持つなら電話機能はガラケーでカバーできるのでiPhoneに毎月6000円かけるまでもなく、iPod touchとPocket WiFiとの組み合わせにすれば維持費は毎月4000円で済む。ハードウェアの数が増えてしまうものの、電話に求める機能とスマホに求める機能は違うので、敢えて1台にまとめるまでもない。 しかしそれでも1台にまとめられればたしかに便利である。最もシンプルなのはiPhoneを諦めてAndroidスマホ1台にまとめることかもしれない。全般的な使い勝手の悪さ、さらに音楽プレイヤーとしての使い勝手の悪さを気にしないなら、おサイフケータイの載ったAndroidスマホ1台で全部まかなえる。ガラケーからスマホに乗り換えるだけだったらAndroidでもあまり気にならないかもしれないが、一旦iPod touchでiOSの使い勝手に慣れてしまうと、とても手を出すつもりになれない。中途半端なiOSもどきに手を出すくらいだったらiPod touchの方がまだ使いやすくて、そうなると結局ガラケーとの併用ということになってしまい、振り出しに戻ってしまう。 おサイフケータイに依存しなければiPhone1台にまとめることができる。iPhoneではテザリングを利用できるので、自宅に固定回線があって外でのデータ通信が少なければ問題ない。それに最近はWiFiスポットが増えているので、通信を極力WiFiに逃がすことで対処できる。おサイフケータイは慣れてしまうと便利で手放せなくなるが、昔はおサイフケータイなんて無かったのだから、頑張れば戻れないこともないだろう。 おサイフケータイのうち比較的利用が多いのはモバイルSuica等の交通系電子マネーだろう。普段JRを利用していればSuicaは必須である。普段電車に乗っているならオートチャージを有効にしておけば改札口を通る都度残高が不足していれば自動的にチャージされるのでチャージの手間が省ける。少しリスクを取ってチャージ金額とチャージされる残高のしきい値を多目に設定しておけば、常に十分な残高が確保される。駅の券売機でもチャージできるし