暴力団対策法に代表される反社会的勢力対策は、「悪い人」がいて善良な人との間に線引き可能だということを前提にしたものである。しかし悪い人だからといって直ちに悪いことをするとは限らない。悪いことをするためには動機と機会と手段の全てが揃っていなければならないからである。何を以て「悪い人」とするかについては大いに議論の余地があるものの、社会に潜んでいる様々な悪い人だって動機と機会と手段とが揃わなければ悪いことをすることなく善良な市民として一生を終えるかもしれない。
例えば人を殺したいという気持ちを抱く人がいても、抑止力が機能した結果として人を殺さなければ人を殺すことなく一生を終える。人を殺したいという気持ちを一度も抱いたことが無い人のみが社会で生きるに値するとしたら、一体何人の人が生き残れるだろうか。
本来抑止すべきは「悪いこと」であって、たとえ「悪い人」を認定して経済制裁するにしても、その目的はあくまでも「悪いこと」を抑止することである。もし「悪い人」を根絶することが目的なら、悪いことをしていない人を含めて閻魔大王が心の中を覗いて地獄の業火で焼き尽くすことになるが、幸か不幸か現代の技術ではそのようなことはまだ実現していない。
「世の中には一般人に対して通用する抑止力が通用しない人がいる」という現実を受け入れた場合、そのような人を敢えて「悪い人」と認定し、「悪いこと」に対する抑止力を高めるというのは現実的な解決策かもしれないが、しかし本来「悪いこと」と「悪い人」は全く異質な概念であり、「悪いこと」を抑止するという原則がないがしろにされたまま「悪い人」を制裁するということを目的とした運用がされるのは危険である。
「悪い人」を制裁することが目的と受け止められることの何が危険かといえば、一つは「その人にお金が渡ることによって具体的にどんな悪いことが起こりうるか」という本来なすべき議論とは関係なく制裁すること自体が目的となることで、不利益を被る人が出てくるというごく一般的な話である。
もう一つは人に対して「悪い人」というラベルを貼ることがケガレ思想と結びつきやすいことである。反社会的勢力と経済的つながりを持つものも制裁対象という運用が、穢れたものに少しでも触れた者は穢れているという考え方につながり、たとえ反社会的勢力に対する実質的な支援が無くても「一旦触れたからには潔白であるという証拠が無い限り絶対に許さない」という理由で「グレーな制裁対象」が際限なく拡大するおそれがある。実際のところ、反社チェックで引っかかるケースの大半は「グレー」であり「クロ」は少数だし、「クロ」は明らかに取引してはならないと思えるレベルである。
さらに、国家公安委員会における指定暴力団の指定が聴聞等によって抗弁の機会を与える一定の法的手続きを経たものであるのに対し、民間での反社会的勢力対策は「なぜクロなのか」「なぜグレーなのか」という説明責任を果たすことなく、抗弁の機会も是正の機会も与えることなく一方的に不利益処分を課すものとなっており、「抗弁の機会を与えることなく不利益処分を行ってはならない」という行政手続の大原則に真っ向から反する運用となっている。司法においても推定無罪が原則であり、証拠に基づく事実認定の法的手続きなしに有罪になることはない。しかし民間では「クロ判定」「グレー判定」の妥当性が検証されることなく、本人に心当たりが無くても単なる流言飛語やデータの誤入力から、あるいはマスメディアを通じた印象操作からでもいつの間にか「グレー認定」されてしまって社会生活に支障することになる。
「悪い人を制裁する」という考え方は「悪いことを抑止する」という原則から逸脱しておりやむを得ない事情による次善の策であることをよく認識した上で、本来の目的に即した運用を心掛けないと、結局誰も幸せにならない社会をもたらすことになる。
例えば人を殺したいという気持ちを抱く人がいても、抑止力が機能した結果として人を殺さなければ人を殺すことなく一生を終える。人を殺したいという気持ちを一度も抱いたことが無い人のみが社会で生きるに値するとしたら、一体何人の人が生き残れるだろうか。
本来抑止すべきは「悪いこと」であって、たとえ「悪い人」を認定して経済制裁するにしても、その目的はあくまでも「悪いこと」を抑止することである。もし「悪い人」を根絶することが目的なら、悪いことをしていない人を含めて閻魔大王が心の中を覗いて地獄の業火で焼き尽くすことになるが、幸か不幸か現代の技術ではそのようなことはまだ実現していない。
「世の中には一般人に対して通用する抑止力が通用しない人がいる」という現実を受け入れた場合、そのような人を敢えて「悪い人」と認定し、「悪いこと」に対する抑止力を高めるというのは現実的な解決策かもしれないが、しかし本来「悪いこと」と「悪い人」は全く異質な概念であり、「悪いこと」を抑止するという原則がないがしろにされたまま「悪い人」を制裁するということを目的とした運用がされるのは危険である。
「悪い人」を制裁することが目的と受け止められることの何が危険かといえば、一つは「その人にお金が渡ることによって具体的にどんな悪いことが起こりうるか」という本来なすべき議論とは関係なく制裁すること自体が目的となることで、不利益を被る人が出てくるというごく一般的な話である。
もう一つは人に対して「悪い人」というラベルを貼ることがケガレ思想と結びつきやすいことである。反社会的勢力と経済的つながりを持つものも制裁対象という運用が、穢れたものに少しでも触れた者は穢れているという考え方につながり、たとえ反社会的勢力に対する実質的な支援が無くても「一旦触れたからには潔白であるという証拠が無い限り絶対に許さない」という理由で「グレーな制裁対象」が際限なく拡大するおそれがある。実際のところ、反社チェックで引っかかるケースの大半は「グレー」であり「クロ」は少数だし、「クロ」は明らかに取引してはならないと思えるレベルである。
さらに、国家公安委員会における指定暴力団の指定が聴聞等によって抗弁の機会を与える一定の法的手続きを経たものであるのに対し、民間での反社会的勢力対策は「なぜクロなのか」「なぜグレーなのか」という説明責任を果たすことなく、抗弁の機会も是正の機会も与えることなく一方的に不利益処分を課すものとなっており、「抗弁の機会を与えることなく不利益処分を行ってはならない」という行政手続の大原則に真っ向から反する運用となっている。司法においても推定無罪が原則であり、証拠に基づく事実認定の法的手続きなしに有罪になることはない。しかし民間では「クロ判定」「グレー判定」の妥当性が検証されることなく、本人に心当たりが無くても単なる流言飛語やデータの誤入力から、あるいはマスメディアを通じた印象操作からでもいつの間にか「グレー認定」されてしまって社会生活に支障することになる。
「悪い人を制裁する」という考え方は「悪いことを抑止する」という原則から逸脱しておりやむを得ない事情による次善の策であることをよく認識した上で、本来の目的に即した運用を心掛けないと、結局誰も幸せにならない社会をもたらすことになる。