レスリングが2020年のオリンピック種目から除外される候補になったことで、レスリング存続へ向けての動きが出てきた。2013年5月31日現在、レスリングと野球・ソフトボールとスカッシュのうちどれか1種目が存続することになっている。これまでを振り返ってみて疑問に思ったことがある。レスリング存続へ向けて運動した人達は、一体誰のためにオリンピックでプレイしたいのだろうか。
オリンピックはアマチュアリズムの建前こそあれ、実態は世界中の観客へ向けた興行である。アマチュアリズムの建前は、ある意味他のプロスポーツの興行主と競合しないようにするための便法ともいえる。興行である以上、より多くの観客を魅了できるスポーツ、より多くのお金を落としてもらえるスポーツがオリンピックの種目として採択される。だからオリンピックの種目として採択してほしかったら観客にとっての面白さをアピールすればよい。
サッカーはヨーロッパと南米を中心に多くの国で人気があるし、金払いの良い先進国の観客もいるから興行価値がある。一方、野球は米国、カリブ海、東アジアといった限られた国でしかプレイされないし、米国と日本を除けばあまり金払いが良くない。レスリングは東欧諸国で盛んだが、東欧ではレスリングに限らず柔道といった他の格闘技も盛んなので、あまり多くの格闘技を採択しても観客層が被ってしまう。ポロはインドでは圧倒的な人気を持つがインド以外では人気が無いので国別の競技が成立しにくい。相撲も、外国人力士が増えたとはいえ、日本とモンゴルしか対戦しない競技がオリンピックに採択されるとは考えにくい。それなら現状通りに日本国内で開催して放映すれば十分である。
スポーツのルール変更も観客が楽しめるようにという目的に沿って考えれば合理的なものばかりである。プレイヤーにとってルールが与件である一方で、興行主にとってはルールは試合を面白くするための手段でしかない。だから特定の国出身の選手ばかりが優勝する場合には、その選手が優勝できないようにルールを変えるようなことも当然行われる。背泳においてバサロキックが支配的になればつまらないからバサロキックを禁止する。当然のことである。別に鈴木大地選手に恨みがあるわけではなく、試合を面白くするためである。ルールの抜け穴を突いて出し抜こうとしても、すぐにルールを変更されてしまうのである。もちろん、ある特定の選手が勝つことが興行価値をもたらすならば(すなわち観客が多くのお金を落とすならば)、その選手が勝つことを妨げる理由は無い。西武ライオンズばかりが勝つパ・リーグには興行価値が無いが、巨人ばかりが勝つセ・リーグには興行価値がある。
オリンピック競技の取捨選択も個別競技のルール変更と似たようなもので、より観客が楽しめる競技へとポートフォリオを組み替えるのは、興行という観点から当然のことである。
レスリング存続へ向けての運動はマスコミの報道で少し聞きかじった程度なのだが、レスリングという競技が観客にとってどう面白いのかという視点でのプレゼンは残念ながら見受けられなかった。もしかしたらIOC向けの資料では競技人口とか観客人口とか経済効果とかが詳細に記載されているのかもしれないが、日本レスリング協会のサイトを見てもその手の資料は掲載されていないので、部外者から見ると日本レスリング協会がレスリングの興行価値を分析できているのか知る術が無い。
そもそも日本人は本当にレスリングという競技が好きなのだろうか。今は吉田選手のような強い選手がメダルを取るから注目されているだけで、たとえ日本人選手が誰もメダルを取れなくてもレスリングの試合を観て楽しめるのだろうか。「自国の選手がメダルを取れるスポーツだからオリンピックで見たい」という考え方はあまりに自国中心主義であって、世界中の国が集まるオリンピックという場にそぐわないし、他国の観客を増やすべき状況において他国の観客にとって魅力の無いものをアピールしても逆効果である。
一連の報道を見ていると、どうやら日本では「スポーツ至上主義」なる考え方があるように見受けられる。一部のプロスポーツを除いて常にプレイヤーの視点で語られ、観客の視点はあまり考慮されない。もちろんトップアスリートが全力で勝負するのはそれ自体素晴らしいことだが、それを観客がどの程度面白いと思うかは別の話である。スポーツをプレイすることはそれ自体極めて有意義なことであり、そのためなら体罰も受け入れられている(最近はその流れが変わりつつあるようだが)。各種スポーツ団体も選手出身者ばかりで、部外者の視点が取り入れられる環境にはなさそうに見える(これは他国でも同様で、米国のようにどんな分野にもコンサルがいるような国の方が特殊なのだろうが)。何のためのスポーツなのか、誰のためのスポーツなのかが顧みられず、スポーツが自己目的化している。スポーツはそれ自体善なるものであり、いかなる異論も許されない雰囲気がある。
別にそれならそれで構わないのだが、もしプレイすることに意義があるという考え方だったらわざわざオリンピックのような興行の場に出るまでもなく、当事者同士で粛々とプレイすればよいのではないだろうか。オリンピックという目標があれば励みになるかもしれないが、オリンピック種目でなくても日々研鑽している選手はいくらでもいる。オリンピック以外にも世界選手権大会はあるので、それを目指せば良い。観客がいようがいまいが、トップアスリート同士の試合には何か素晴らしいものがあるに違いない。
オリンピックはアマチュアリズムの建前こそあれ、実態は世界中の観客へ向けた興行である。アマチュアリズムの建前は、ある意味他のプロスポーツの興行主と競合しないようにするための便法ともいえる。興行である以上、より多くの観客を魅了できるスポーツ、より多くのお金を落としてもらえるスポーツがオリンピックの種目として採択される。だからオリンピックの種目として採択してほしかったら観客にとっての面白さをアピールすればよい。
サッカーはヨーロッパと南米を中心に多くの国で人気があるし、金払いの良い先進国の観客もいるから興行価値がある。一方、野球は米国、カリブ海、東アジアといった限られた国でしかプレイされないし、米国と日本を除けばあまり金払いが良くない。レスリングは東欧諸国で盛んだが、東欧ではレスリングに限らず柔道といった他の格闘技も盛んなので、あまり多くの格闘技を採択しても観客層が被ってしまう。ポロはインドでは圧倒的な人気を持つがインド以外では人気が無いので国別の競技が成立しにくい。相撲も、外国人力士が増えたとはいえ、日本とモンゴルしか対戦しない競技がオリンピックに採択されるとは考えにくい。それなら現状通りに日本国内で開催して放映すれば十分である。
スポーツのルール変更も観客が楽しめるようにという目的に沿って考えれば合理的なものばかりである。プレイヤーにとってルールが与件である一方で、興行主にとってはルールは試合を面白くするための手段でしかない。だから特定の国出身の選手ばかりが優勝する場合には、その選手が優勝できないようにルールを変えるようなことも当然行われる。背泳においてバサロキックが支配的になればつまらないからバサロキックを禁止する。当然のことである。別に鈴木大地選手に恨みがあるわけではなく、試合を面白くするためである。ルールの抜け穴を突いて出し抜こうとしても、すぐにルールを変更されてしまうのである。もちろん、ある特定の選手が勝つことが興行価値をもたらすならば(すなわち観客が多くのお金を落とすならば)、その選手が勝つことを妨げる理由は無い。西武ライオンズばかりが勝つパ・リーグには興行価値が無いが、巨人ばかりが勝つセ・リーグには興行価値がある。
オリンピック競技の取捨選択も個別競技のルール変更と似たようなもので、より観客が楽しめる競技へとポートフォリオを組み替えるのは、興行という観点から当然のことである。
レスリング存続へ向けての運動はマスコミの報道で少し聞きかじった程度なのだが、レスリングという競技が観客にとってどう面白いのかという視点でのプレゼンは残念ながら見受けられなかった。もしかしたらIOC向けの資料では競技人口とか観客人口とか経済効果とかが詳細に記載されているのかもしれないが、日本レスリング協会のサイトを見てもその手の資料は掲載されていないので、部外者から見ると日本レスリング協会がレスリングの興行価値を分析できているのか知る術が無い。
そもそも日本人は本当にレスリングという競技が好きなのだろうか。今は吉田選手のような強い選手がメダルを取るから注目されているだけで、たとえ日本人選手が誰もメダルを取れなくてもレスリングの試合を観て楽しめるのだろうか。「自国の選手がメダルを取れるスポーツだからオリンピックで見たい」という考え方はあまりに自国中心主義であって、世界中の国が集まるオリンピックという場にそぐわないし、他国の観客を増やすべき状況において他国の観客にとって魅力の無いものをアピールしても逆効果である。
一連の報道を見ていると、どうやら日本では「スポーツ至上主義」なる考え方があるように見受けられる。一部のプロスポーツを除いて常にプレイヤーの視点で語られ、観客の視点はあまり考慮されない。もちろんトップアスリートが全力で勝負するのはそれ自体素晴らしいことだが、それを観客がどの程度面白いと思うかは別の話である。スポーツをプレイすることはそれ自体極めて有意義なことであり、そのためなら体罰も受け入れられている(最近はその流れが変わりつつあるようだが)。各種スポーツ団体も選手出身者ばかりで、部外者の視点が取り入れられる環境にはなさそうに見える(これは他国でも同様で、米国のようにどんな分野にもコンサルがいるような国の方が特殊なのだろうが)。何のためのスポーツなのか、誰のためのスポーツなのかが顧みられず、スポーツが自己目的化している。スポーツはそれ自体善なるものであり、いかなる異論も許されない雰囲気がある。
別にそれならそれで構わないのだが、もしプレイすることに意義があるという考え方だったらわざわざオリンピックのような興行の場に出るまでもなく、当事者同士で粛々とプレイすればよいのではないだろうか。オリンピックという目標があれば励みになるかもしれないが、オリンピック種目でなくても日々研鑽している選手はいくらでもいる。オリンピック以外にも世界選手権大会はあるので、それを目指せば良い。観客がいようがいまいが、トップアスリート同士の試合には何か素晴らしいものがあるに違いない。