世間一般では、「貧しい生活を経験した人は物を大切にする」と信じられている。物不足で苦労した人をねぎらう美談として扱われているのか、誰も表立って否定しない。しかし戦時中や戦後の物不足を経験した世代の行動を観察していると、もし本当に物を大切にしていたら決してしないような行動が見受けられる。
例えば、買ってきた生鮮食料品を冷蔵庫に入れっぱなしにして腐らせる。食べきれないほどの料理を作って残して捨てる。電子レンジやオーブントースターで温めたものをほったらかしにしてまずくしたり食べられなくしたりする。食べ物を大切にするなら多少まずくなっても我慢して食べるだろうが、そういう人に限って食べずに捨てる。年を取れば物を忘れやすくなるとはいえ、これが100万円の札束だったらほったらかしにするだろうか。100万円の札束はほったらかしにしないけれども食べ物はほったらかしにするということは、お金は大切にするけど食べ物は粗末にするということである。
使いもしないものを貯め込んで、使うことも捨てることもしない。物を持っているときの選択肢は4つある。最終的には「使う」「売る」「人にあげる」「捨てる」のどれかに該当する。使わないなら売るか人にあげるか捨てるかするしか選択肢が無いはずなのに、人に与えることもしなければ手放すこともしない。使わないものを手放さないのは物を大切にしていることにならない。必要な人に使ってもらう方が物を大切にしている。生鮮食料品はいつか腐るが耐久消費財は陳腐化しても腐らないので往々にしてゴミ屋敷になる。こういう行動は生まれた頃からそこそこ豊かだった若い世代よりもむしろ幼少期に貧しい生活を経験した老人世代によく見られる。
しかしその一方で、物を大切にする人だってもちろんいる。そうでなければ「貧しい経験をした人は物を大切にする」なんてことが疑問も無しに受け入れられるはずがない。同じような経験をしながら、なぜこのような違いが生じるのだろうか。
物不足で苦労したとき、人が抱くであろう観念には2種類ある。1つ目は「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」というものであり、2つ目は「物が足りないせいで節約させられている」というものである。前者の場合、物があることに感謝して大切に使おうとする。これは通説通りである。一方後者の場合、「物が足りていれば節約しなくてよい」「物を無駄使いできるのが豊かさの証だ」「物を無駄にしている自分は豊かだ」「豊かさを実感するためには物を無駄使いする必要がある」となり、かくして物不足で苦労した結果、物が豊富なときには却って物を粗末にするようになる。しかしなぜか不思議なことに食べ物は粗末にするのにお金は粗末にしない。1万円札を燃やせばさぞかし豊かさを実感できるだろうに、そういうことはしない。地球から与えられたものは粗末にするくせに金融屋から与えられたものはありがたがる。
次に逆方向に見てみよう。「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」という観念を形成しているのは、「自分は与えられている」という安心感でありまた、「自分が必要としているものを現に与えられている」という瞬間、すなわち「今ここ」にフォーカスする態度である。そのような人にとっては「必要なときに必要なものが与えられる」というのが豊かさの観念である。自分に物を与えてくれている存在を意識すれば、物を粗末にするような発想は生じ得ない。一方、「物が足りないせいで節約させられている」という観念を形成しているのは、「自分には十分に与えられていない」という不信感であり、「物が手に入らないかもしれない」という恐怖心であり、「今ここ」以外にフォーカスする態度である。そのような人にとって豊かさとは「自分が物を所有すること」であり、往々にして「自分が今必要としている以上に物を所有すること」「自分が使う分以上の物を所有すること」である。
例えば、今では車なんて有り余っているから、通勤や買物で毎日車に乗るのでなければ車を所有せずにレンタカーやカーシェアリングを活用する方が効率が良い。たとえ共有しても必要なときに利用できれば問題ない。所有することは利用するための一手段に過ぎないので、状況に応じて所有とサービス利用とを使い分ければよい。物心ついた頃から車が有り余っている若い世代はそのようなサービス化された形態に抵抗が無いが、車が十分に行き渡っておらず車を利用することに苦労した世代は、たとえ費用対効果の面から割に合わなくても車を所有することにこだわる。
ATMやクレジットカードが普及している時代に育てば、現金は必要に応じて引き出せば十分だしそもそも現金以外の決済手段も豊富に利用できるから、必要最低限の現金しか持ち歩かない。一方、現金しか決済手段がなかった時代に育った人は、現金が無くて物を買えないのが不安だから多額の現金を持ち歩く傾向がある。
過去に遡ってみると、明治大正期の東京では家が有り余っており、空家が豊富にあったから、家は借りて住むものであり、気軽に引っ越すものだった。それが関東大震災や空襲で家が不足するようになって初めて持ち家への渇望が生じた。高度成長期になって地方から都市に人口が流入して家の不足が決定的になって形成されたのがマイホーム神話である。それが今やニュータウンはゴーストタウンになり過疎地では一戸建てが20万円で買える時代になった。不動産の価値は収益を生むことにあるので、事業に使えず仕事のある所に通勤することもできないような(すなわちそこに住むことで収益を得る機会が無いような)無価値な不動産には値段がつかないからである。
このように物に対する執着心は貧しさの裏返しなのである。物が豊富だと感じる人は必要なときに必要なだけ調達して使うから、無駄なものを持たない。1990年代以降物が売れなくなったと言われているが、十分に豊かになれば物は売れなくなるのである。しかしそれで貧しくなったかというとそんなことはなくて、必要なときに必要なものが手に入るという意味ではバブル期よりも今の方がはるかに豊かである。大量生産大量消費など物質的に貧しかった時代の神話でしかない。
貧しい心は貧しい現実を生み、豊かな心は豊かな現実を生む。満たされない思いは満たされない現実を生み、満たされた思いは満たされた現実を生む。今あるものに感謝できる人は心が豊かな人であり、物を無駄遣いしないから必要なものを必要な分だけ利用できる。一方、恐れに支配されている人は物に執着して物を無駄遣いして物質的に貧しくなるだけでなく、身の回りに物がたくさんあっても与えられていることに感謝できないから、常に欠乏感にさいなまされる。欲の本質は満たされない思いである。物を所有しても満足できないのは物が不足しているからだと勘違いして次々に物を買うが、価値に貢献しないものを次々に買っていたら当然物質的に貧しくなる。買物症候群の人は心が豊かだといえようか。ゴミ屋敷に住む人は心が豊かだといえようか。
よく「苦労が人格を磨く」と言われるが、身の回りを観察してみると、苦労することで人格が磨かれた人よりも苦労することで根性がねじ曲がった人の方が多く見受けられるのはどういうことだろうか。体育会系部活やその文化を持つ職場は苦痛の再生産装置だし、物質的な欠乏感は大量生産大量消費を通じて富の偏在と無駄遣いをもたらし物質的な欠乏感を再生産する。戦争のような大量殺戮は報復の連鎖をもたらす。むしろ、「霊性の高い人は苦労してもなおそれを自らの霊性向上に役立てることができる」というべきなのではないだろうか。そこまで霊性の高くない人は苦労することで苦痛の再生産装置に組み込まれてしまう。そのような霊性の高くない人に対して「苦労が人格を磨く」と説くのは、「だからお前は苦労しろ」と言って苦痛の再生産装置へと引き込んで奴隷化しようとする宣伝文句のようにしか聞こえない。
そのような巧妙な苦痛の再生産装置の存在を想像すると、あたかも酪農家が乳牛から乳を絞るが如く、人間を飼い慣らして人間からネガティブな感情を搾り取って自らの糧をするような勢力がいたのではないかという気さえする。しかし幸いなことに大量生産大量消費で欠乏感を煽り立てる仕組は持続不可能である。地球環境への負荷もさることながら、先進国では財政も金融も社会保障も行き詰まっている上に、若い世代の価値観は古い世代の価値観とは異なる。今まで機能してきた苦痛の再生産装置が機能不全を起こして世代間の連鎖を起こせなくなっている。古い社会にしがみつこうとしている人にとってはこの世の終わりのような事態だが、苦痛の再生産を終わらせたいと思う人にとってはまたとないチャンスである。
例えば、買ってきた生鮮食料品を冷蔵庫に入れっぱなしにして腐らせる。食べきれないほどの料理を作って残して捨てる。電子レンジやオーブントースターで温めたものをほったらかしにしてまずくしたり食べられなくしたりする。食べ物を大切にするなら多少まずくなっても我慢して食べるだろうが、そういう人に限って食べずに捨てる。年を取れば物を忘れやすくなるとはいえ、これが100万円の札束だったらほったらかしにするだろうか。100万円の札束はほったらかしにしないけれども食べ物はほったらかしにするということは、お金は大切にするけど食べ物は粗末にするということである。
使いもしないものを貯め込んで、使うことも捨てることもしない。物を持っているときの選択肢は4つある。最終的には「使う」「売る」「人にあげる」「捨てる」のどれかに該当する。使わないなら売るか人にあげるか捨てるかするしか選択肢が無いはずなのに、人に与えることもしなければ手放すこともしない。使わないものを手放さないのは物を大切にしていることにならない。必要な人に使ってもらう方が物を大切にしている。生鮮食料品はいつか腐るが耐久消費財は陳腐化しても腐らないので往々にしてゴミ屋敷になる。こういう行動は生まれた頃からそこそこ豊かだった若い世代よりもむしろ幼少期に貧しい生活を経験した老人世代によく見られる。
しかしその一方で、物を大切にする人だってもちろんいる。そうでなければ「貧しい経験をした人は物を大切にする」なんてことが疑問も無しに受け入れられるはずがない。同じような経験をしながら、なぜこのような違いが生じるのだろうか。
物不足で苦労したとき、人が抱くであろう観念には2種類ある。1つ目は「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」というものであり、2つ目は「物が足りないせいで節約させられている」というものである。前者の場合、物があることに感謝して大切に使おうとする。これは通説通りである。一方後者の場合、「物が足りていれば節約しなくてよい」「物を無駄使いできるのが豊かさの証だ」「物を無駄にしている自分は豊かだ」「豊かさを実感するためには物を無駄使いする必要がある」となり、かくして物不足で苦労した結果、物が豊富なときには却って物を粗末にするようになる。しかしなぜか不思議なことに食べ物は粗末にするのにお金は粗末にしない。1万円札を燃やせばさぞかし豊かさを実感できるだろうに、そういうことはしない。地球から与えられたものは粗末にするくせに金融屋から与えられたものはありがたがる。
次に逆方向に見てみよう。「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」という観念を形成しているのは、「自分は与えられている」という安心感でありまた、「自分が必要としているものを現に与えられている」という瞬間、すなわち「今ここ」にフォーカスする態度である。そのような人にとっては「必要なときに必要なものが与えられる」というのが豊かさの観念である。自分に物を与えてくれている存在を意識すれば、物を粗末にするような発想は生じ得ない。一方、「物が足りないせいで節約させられている」という観念を形成しているのは、「自分には十分に与えられていない」という不信感であり、「物が手に入らないかもしれない」という恐怖心であり、「今ここ」以外にフォーカスする態度である。そのような人にとって豊かさとは「自分が物を所有すること」であり、往々にして「自分が今必要としている以上に物を所有すること」「自分が使う分以上の物を所有すること」である。
例えば、今では車なんて有り余っているから、通勤や買物で毎日車に乗るのでなければ車を所有せずにレンタカーやカーシェアリングを活用する方が効率が良い。たとえ共有しても必要なときに利用できれば問題ない。所有することは利用するための一手段に過ぎないので、状況に応じて所有とサービス利用とを使い分ければよい。物心ついた頃から車が有り余っている若い世代はそのようなサービス化された形態に抵抗が無いが、車が十分に行き渡っておらず車を利用することに苦労した世代は、たとえ費用対効果の面から割に合わなくても車を所有することにこだわる。
ATMやクレジットカードが普及している時代に育てば、現金は必要に応じて引き出せば十分だしそもそも現金以外の決済手段も豊富に利用できるから、必要最低限の現金しか持ち歩かない。一方、現金しか決済手段がなかった時代に育った人は、現金が無くて物を買えないのが不安だから多額の現金を持ち歩く傾向がある。
過去に遡ってみると、明治大正期の東京では家が有り余っており、空家が豊富にあったから、家は借りて住むものであり、気軽に引っ越すものだった。それが関東大震災や空襲で家が不足するようになって初めて持ち家への渇望が生じた。高度成長期になって地方から都市に人口が流入して家の不足が決定的になって形成されたのがマイホーム神話である。それが今やニュータウンはゴーストタウンになり過疎地では一戸建てが20万円で買える時代になった。不動産の価値は収益を生むことにあるので、事業に使えず仕事のある所に通勤することもできないような(すなわちそこに住むことで収益を得る機会が無いような)無価値な不動産には値段がつかないからである。
このように物に対する執着心は貧しさの裏返しなのである。物が豊富だと感じる人は必要なときに必要なだけ調達して使うから、無駄なものを持たない。1990年代以降物が売れなくなったと言われているが、十分に豊かになれば物は売れなくなるのである。しかしそれで貧しくなったかというとそんなことはなくて、必要なときに必要なものが手に入るという意味ではバブル期よりも今の方がはるかに豊かである。大量生産大量消費など物質的に貧しかった時代の神話でしかない。
貧しい心は貧しい現実を生み、豊かな心は豊かな現実を生む。満たされない思いは満たされない現実を生み、満たされた思いは満たされた現実を生む。今あるものに感謝できる人は心が豊かな人であり、物を無駄遣いしないから必要なものを必要な分だけ利用できる。一方、恐れに支配されている人は物に執着して物を無駄遣いして物質的に貧しくなるだけでなく、身の回りに物がたくさんあっても与えられていることに感謝できないから、常に欠乏感にさいなまされる。欲の本質は満たされない思いである。物を所有しても満足できないのは物が不足しているからだと勘違いして次々に物を買うが、価値に貢献しないものを次々に買っていたら当然物質的に貧しくなる。買物症候群の人は心が豊かだといえようか。ゴミ屋敷に住む人は心が豊かだといえようか。
よく「苦労が人格を磨く」と言われるが、身の回りを観察してみると、苦労することで人格が磨かれた人よりも苦労することで根性がねじ曲がった人の方が多く見受けられるのはどういうことだろうか。体育会系部活やその文化を持つ職場は苦痛の再生産装置だし、物質的な欠乏感は大量生産大量消費を通じて富の偏在と無駄遣いをもたらし物質的な欠乏感を再生産する。戦争のような大量殺戮は報復の連鎖をもたらす。むしろ、「霊性の高い人は苦労してもなおそれを自らの霊性向上に役立てることができる」というべきなのではないだろうか。そこまで霊性の高くない人は苦労することで苦痛の再生産装置に組み込まれてしまう。そのような霊性の高くない人に対して「苦労が人格を磨く」と説くのは、「だからお前は苦労しろ」と言って苦痛の再生産装置へと引き込んで奴隷化しようとする宣伝文句のようにしか聞こえない。
そのような巧妙な苦痛の再生産装置の存在を想像すると、あたかも酪農家が乳牛から乳を絞るが如く、人間を飼い慣らして人間からネガティブな感情を搾り取って自らの糧をするような勢力がいたのではないかという気さえする。しかし幸いなことに大量生産大量消費で欠乏感を煽り立てる仕組は持続不可能である。地球環境への負荷もさることながら、先進国では財政も金融も社会保障も行き詰まっている上に、若い世代の価値観は古い世代の価値観とは異なる。今まで機能してきた苦痛の再生産装置が機能不全を起こして世代間の連鎖を起こせなくなっている。古い社会にしがみつこうとしている人にとってはこの世の終わりのような事態だが、苦痛の再生産を終わらせたいと思う人にとってはまたとないチャンスである。