夏目漱石の「こころ」という小説の中で、「先生」が「K」に対して「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」という言葉を放った。先生とKとは同郷かつ同じ下宿に住む親友で、共に大家の娘に恋していた。先生はストイックなKに対して求婚を牽制すべく「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」という言葉を放ち、それを受けてKは苦悩することになる。その間に先生は先んじて大家の娘に求婚して結婚することになる。それを知ったKは絶望のあまり入水自殺する。
このストーリーはメロドラマ的に一見尤もらしいものの、よく考えてみると果たしてKは苦悩する必要があったのかと疑問に思えてくる。いくつか暗黙の前提を置かないと説明がつかないからである。すなわち、「女性に恋をするのは精神的に向上心が無い」「馬鹿であってはならない」という暗黙の前提を置く必要があるのだが、よく考えてみると一見尤もらしいこれらの前提条件が疑わしいからである。
「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」という言葉を命題として扱う場合、これをSKB命題と呼ぶことにしよう。この命題は「精神的に向上心が無い」と「馬鹿だ」の2つの要素に分けることができ、「精神的に向上心が無い」⇒「馬鹿だ」という命題だから、述語論理に書き下すと「精神的に向上心がある」または「馬鹿である」という記述になるので、対象となる人物(「こころ」:においてはK)がどちらかに該当すれば真だし、どちらにも該当しなければ偽ということになる。
では「精神的に向上心があるかどうか」「馬鹿であるかどうか」をどうやって判断すればよいのだろう。正攻法で臨むなら証拠となりうる情報を集める他に無いのだが、ここでは「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という言葉に大いに苦悩したKにならって、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われたときにどう感じるかという観点を導入してみよう。
「精神的に向上心がある」「精神的に向上心が無い」のそれぞれの場合に分けて考える。まず、精神的に向上心が無い場合だが、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という命題が正しいなら馬鹿だということになるが、精神的に向上心の無いという言葉は精神的に低いレベルであってもより高いレベルを求めないということだから、言葉の定義上、たとえ馬鹿だと言われても気にならないはずである。
一方、馬鹿だと言われて気にするということは、精神的により高いレベルを目指しているということだから、それは精神的に向上心があるということであり、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という命題がたとえ真であっても、それによって直ちに馬鹿ということにはならない。であるならばよく考えて見れば「たとえ精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われようとも、それを気にする限りは馬鹿ではないということだから、問題なんて何もないよということになる。
結局どちらの場合であっても「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われても気に病む必要は無いのである。
ではKの場合はどうだったのだろうか。彼は上記のような簡単な場合分けができなかった結果、大いに苦悩し、最終的には入水自殺することになる。精神的には向上心があったのかもしれないが、同時に馬鹿でもある。よって、Kにとって「精神的に向上心がある、または馬鹿である」という命題は真である。彼の真の問題は精神的に向上心が無かったことではなく、馬鹿だったことなのだ。たしかに本文中でもKは「僕は馬鹿だ」と言っている。
しかし上記の議論は論理学としては問題がある。少なくとも通常の記号論理学の枠内では説明がつかない。論理体系の外側にいる人間が介在しているからである。そもそも「気にする」とか「気にしない」といったことは論理ではなく感情の問題だし、「精神的に向上心がある」とか「馬鹿である」とかも主観の問題でしかない。論理を司る人間に感情が介入してきた場合に、記号論理の諸規則が本当に成り立つかどうかは自明ではなく、それは論理的でない判断をしたKからも見て取れる。
論理というのは通常使う範囲ではとても便利なものだが、論理体系が持つ情報量は公理が持つ情報量を越えることはできないという弱点がある。人間が物を考えるときには、暗黙のうちにいろいろな情報を添加して対応しているものである。もしかして、Kの不幸は論理学的に厳密であろうとするあまりに思考がオーバーヒートしたことなのかもしれない。それならば入水自殺をしてもおかしくない。しかし仮にそうだとすると、先生が明治の精神と殉死するほどまでに自責の念に駆られたのは、Kを出し抜いて求婚したことではなく、Kに対して変な命題を提示したためなのかもしれない。
荒唐無稽な話に思えるかもしれないが、漱石は日本近代文学の父であると同時に、デビュー作の「吾輩は猫である」からも見て取れる通り、当時稀代の教養人でもあった。人を食った演出の1つや2つくらいあってもよいではないか。なお、ゲーデルの不完全性定理が証明されたのは1930年、「こころ」が出版されたのは1914年だが、たとえゲーデルの不完全性の証明の前であろうと、近代的思考の持つ限界について何か感じ取ることはできたとしてもおかしくないだろう。
このストーリーはメロドラマ的に一見尤もらしいものの、よく考えてみると果たしてKは苦悩する必要があったのかと疑問に思えてくる。いくつか暗黙の前提を置かないと説明がつかないからである。すなわち、「女性に恋をするのは精神的に向上心が無い」「馬鹿であってはならない」という暗黙の前提を置く必要があるのだが、よく考えてみると一見尤もらしいこれらの前提条件が疑わしいからである。
「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」という言葉を命題として扱う場合、これをSKB命題と呼ぶことにしよう。この命題は「精神的に向上心が無い」と「馬鹿だ」の2つの要素に分けることができ、「精神的に向上心が無い」⇒「馬鹿だ」という命題だから、述語論理に書き下すと「精神的に向上心がある」または「馬鹿である」という記述になるので、対象となる人物(「こころ」:においてはK)がどちらかに該当すれば真だし、どちらにも該当しなければ偽ということになる。
では「精神的に向上心があるかどうか」「馬鹿であるかどうか」をどうやって判断すればよいのだろう。正攻法で臨むなら証拠となりうる情報を集める他に無いのだが、ここでは「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という言葉に大いに苦悩したKにならって、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われたときにどう感じるかという観点を導入してみよう。
「精神的に向上心がある」「精神的に向上心が無い」のそれぞれの場合に分けて考える。まず、精神的に向上心が無い場合だが、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という命題が正しいなら馬鹿だということになるが、精神的に向上心の無いという言葉は精神的に低いレベルであってもより高いレベルを求めないということだから、言葉の定義上、たとえ馬鹿だと言われても気にならないはずである。
一方、馬鹿だと言われて気にするということは、精神的により高いレベルを目指しているということだから、それは精神的に向上心があるということであり、「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という命題がたとえ真であっても、それによって直ちに馬鹿ということにはならない。であるならばよく考えて見れば「たとえ精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われようとも、それを気にする限りは馬鹿ではないということだから、問題なんて何もないよということになる。
結局どちらの場合であっても「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」と言われても気に病む必要は無いのである。
ではKの場合はどうだったのだろうか。彼は上記のような簡単な場合分けができなかった結果、大いに苦悩し、最終的には入水自殺することになる。精神的には向上心があったのかもしれないが、同時に馬鹿でもある。よって、Kにとって「精神的に向上心がある、または馬鹿である」という命題は真である。彼の真の問題は精神的に向上心が無かったことではなく、馬鹿だったことなのだ。たしかに本文中でもKは「僕は馬鹿だ」と言っている。
しかし上記の議論は論理学としては問題がある。少なくとも通常の記号論理学の枠内では説明がつかない。論理体系の外側にいる人間が介在しているからである。そもそも「気にする」とか「気にしない」といったことは論理ではなく感情の問題だし、「精神的に向上心がある」とか「馬鹿である」とかも主観の問題でしかない。論理を司る人間に感情が介入してきた場合に、記号論理の諸規則が本当に成り立つかどうかは自明ではなく、それは論理的でない判断をしたKからも見て取れる。
論理というのは通常使う範囲ではとても便利なものだが、論理体系が持つ情報量は公理が持つ情報量を越えることはできないという弱点がある。人間が物を考えるときには、暗黙のうちにいろいろな情報を添加して対応しているものである。もしかして、Kの不幸は論理学的に厳密であろうとするあまりに思考がオーバーヒートしたことなのかもしれない。それならば入水自殺をしてもおかしくない。しかし仮にそうだとすると、先生が明治の精神と殉死するほどまでに自責の念に駆られたのは、Kを出し抜いて求婚したことではなく、Kに対して変な命題を提示したためなのかもしれない。
荒唐無稽な話に思えるかもしれないが、漱石は日本近代文学の父であると同時に、デビュー作の「吾輩は猫である」からも見て取れる通り、当時稀代の教養人でもあった。人を食った演出の1つや2つくらいあってもよいではないか。なお、ゲーデルの不完全性定理が証明されたのは1930年、「こころ」が出版されたのは1914年だが、たとえゲーデルの不完全性の証明の前であろうと、近代的思考の持つ限界について何か感じ取ることはできたとしてもおかしくないだろう。