スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2013の投稿を表示しています

東横INNレンタカーサービスを利用してみた

東横イン では、 タイムズカーレンタル (旧マツダレンタカー)と提携して、 宿泊客向けに安価にレンタカーを提供するサービス を実施している。コンパクトカー(デミオ)が24時間5460円(税込、免責補償込)で利用できるだけでなく、東横インの駐車場を無料で利用できたり(大半の東横インの駐車場は有料である)、ホテルまで配車してもらえたりする。ちなみに ルートイン と オリックスレンタカー が提携して 同様のサービス を提供しているが、駐車場無料や配車サービスは含まれていない。また、東横INNレンタカーサービスに比べて少しだけ高い。 東横INNレンタカーサービスを利用するには、まず東横インに宿泊予約をした上で、東横INNレンタカーサービス専用の電話番号に電話してレンタカーの予約をする。その際、東横インの予約番号を尋ねられるが、楽天トラベル等の他のサイトを経由して予約するのでも問題ない。予約情報は予約センターから宿泊先の東横インにFAX(電子メールではないらしい)で送信され、駐車場が必要な場合には駐車場の予約もなされるようだが、念のため駐車場の予約状況については東横インに直接確認してほしいと言われる。予約が完了すると7桁の予約番号をもらうので、変更やキャンセルの場合にはこの予約番号を告げる。 24時間をどう配分するかについては選択の余地がある。早朝に出発するなら前日夕方から借りると便利である。反対に、夕方の帰着がレンタカーの営業時間後である場合や帰着が遅れる可能性がある場合には、翌朝まで借りておけば安全だろう。1泊して空港から往復するなら、正午から翌日正午までといったような借り方が便利だろう。空港からの往復で利用するなら、大人2人なら空港リムジンバスで市内に往復するのと同じくらいの値段だし、デミオだと狭いが無理して3人とか4人で乗ればバスよりも安い。 デミオは後部座席と荷物室が狭いので、大人4人で乗るのは難しいが、どのみち安いので2台借りて2人づつ分乗するか、あるいはもっと大きなサイズの車を借りるかした方がよいだろう。デミオクラス以外の車を借りるときには基本料金から15%割引である。ただしこの程度だったら他社とあまり変わりなかったりする。 東横インにチェックインしたときに東横INNレンタカーサービスを利用している旨は伝わっていた。駐車場の予約情報が伝わっている...

モバイルSuica特急券との組み合わせで駅レンタカーを利用してみた

地方は公共交通機関が使いにくいので、長距離の移動だと飛行機+空港からレンタカーとか新幹線+駅からレンタカーという使い方をするのが便利である。JR東日本エリアだと飛行機を利用する機会が事実上存在しないので、長距離の移動では必然的に新幹線(または在来線特急)+レンタカーになる。 近場だったら最初から車で移動してもよいのだが、都心付近の渋滞の中で長時間運転するのは疲れるし、帰りならなおさらである。それに、金曜の夜に出発して月曜の朝に戻ってくるなんて使い方をする場合には、自宅に戻って車を取りに行くよりもそのまま東京駅から新幹線に乗ってしまう方が楽だし早い。東京で仕事をしている人が週末の時間を有効活用する上でも実は新幹線+レンタカーは有利だったりする。 また、レンタカーはその土地に合った車両を用意しており、寒冷地では4WDが多いし、積雪期にはスタッドレスタイヤが標準で装備される。東京から東北上信越方面に出かける場合、東京でスタッドレスタイヤに履き替えるのはお金がかかるから、それなら現地でレンタカーを調達してしまった方が安上がりだし楽だったりする。スキーのように荷物が多ければ最初から車の方が楽ともいえるが、だいぶ昔から宅配便という便利なものがあるので、途中で公共交通機関を利用してもさほど問題ない。 さて 駅レンタカー だが、駅レンタカーの利点はJRとシームレスに利用できることのはずなのだが、あいにくJRと駅レンタカーとでは予約システムが別々なのでシームレスとはいえない。昔はマルスでも予約できたのだが、最近はマルスの機能を整理していて、JR以外の予約には対応しなくなっている。JRの予約と別々にネットで予約するのだったら大手レンタカー会社でも変わらないし、大手レンタカー会社の各種割引を利用する方が有利だったりする。残るのはJRとの組み合わせで安くなることくらいである。 レール&レンタカーきっぷ だと駅レンタカーはさほど安くならないが、JRの方が安くなる。運賃が2割引き、特急料金やグリーン料金も1割引きになるので、他にJRの運賃料金を安くする機会が無い場合には検討に値する。 JR各社の中で鉄道とレンタカーとの連携を最も重視しているのはJR東日本で、JR他社エリアよりも料金が割安に設定されているのみならず、JRとの併用でさらに安くなる。トクだ値との併用で基本料金...

イケアのポエングを購入

イケア のロングセラーのアームチェアである ポエング をついに購入した。店頭で座ってみるたびに座り心地は良好で、その割に値段が手頃なので、いつか買いたいと長らく思っていたのだが、電車で持ち帰るには大きすぎるし、かといって店頭で購入後に配送してもらうと送料1000円がかかるので、思いとどまっていた。しかも通販では購入できない。このたび車で来店する機会があったため購入に至った次第である。 当初はスツールを購入するつもりはなかったのだが、たまたまIKEA Family向けにスツールとセットで1000円弱安くなる割引があったので、スツールもセットで購入した。8980円から990円安くなって7990円である。レジ手前に段ボールで梱包された家具があるので、それを台車に乗せてレジでチェックアウトする。エレベーターで駐車場まで上がって車に乗せればあとはそのまま持ち帰るだけである。 IKEAの家具は自分で組み立てる必要があるが、説明書が秀逸で、言葉が全く書いていなくてもわかりやすい。レゴを彷彿とさせる。組み立てといってもネジで留めるだけであり、付属の6角レンチで回すだけなので簡単である。大きな荷重がかかる製品の割りには組み立ては30分程度で完了した。組み立て式のメリットはコストが安くなることだが、それだけでなく、組み立て可能ということは分解も可能ということなので、分解して箱詰めすれば引っ越しのときも楽である(そのためには箱を保存する必要があるが)。 実際に組み立ててみると、スツールが意外と大きい。しかしそれ故に足がしっかり支えられており、椅子の形状もあいまって、実に快適である。大きなスツールの上に足を乗せていると布団の上に転がっているような気分になる。一方、椅子本体はアームチェアの割にはさほど大きくない。さすがロングセラー商品だけあって、椅子としての完成度が高い。一番安いクッションを購入したが、フレームはどれも共通なので、基本的に座り心地に大差ない。同じ姿勢で長時間座っていると疲れるが、ポエングは木のフレームがバネになって後ろに沈み込むので、、ロキングチェア同様に適度に体勢を変化させることができる。 ノートPCを膝に乗せると調度良い姿勢になり、PCを使う作業をしやすい。たった8000円で作業効率が良くなるのだったら安い買物である。もちろん本を読むのにも適している。テレ...

787に乗ってみた

別に狙って乗ったわけではないが、乗った飛行機がたまたま787だった。待合室でしげしげと眺めればいろいろ観察できたのかもしれないが、そういうことをせずにそそくさと搭乗してしまったので、機内の客室の状況しかわからない。 内装については最新の内装というより他はなくて、737であっても最近新造されたのは787とほぼ同等の内装なので、スカイマークの737であっても運が良ければ最新の内装である。 787の特色はカーボンファイバー製の胴体と、そこから派生した機内の気圧の高さと湿度の高さである。これによって、長時間の飛行では疲れ方が違うことが期待される。しかし国内線程度の飛行時間だと明確に違いを感じることはできなかった。さすがに地上と同じ気圧というわけにはいかなかたので、高度が上がっているときと下がっているときには何度か耳抜きが必要だった。静かで揺れなくてエアバスみたいな乗り心地だと感じたが気のせいかもしれない。ボーイングの飛行機は伝統的に剛性が弱くてたわませることを強度を確保しているが、787の場合はカーボンファイバー製の胴体のせいか、剛性感があるように感じられた。777と乗り比べてみたら777の方はもっとゆさゆさ揺れる感じだったので、やはり787の方が剛性が高いのかもしれない。 客室で唯一787らしさを感じることができたのは窓である。窓が大きいと言われている割には新幹線の窓の大きさには程遠かったが、それでも通路側からでも外の景色を見やすくなった。日除けが液晶式になったことで、もっとも暗くしても昼間なら外の景色がうっすらと見える。また、日除けの制御が電子式になったことで集中制御が可能になり、乗務員が離着陸時に日除けをすべて上げたり国際線の巡航時に日除けをおろしたりする手間が省けている。さらに、1枚1枚のプラスチック製の日除けが無くなったことで機体の軽量化にも貢献している。 乗ってみれば飛行機はやはり飛行機だったということで、他の機種に比べて著しく違う部分はさほど感じられなかった。国際線で使うなら違うかもしれないが、国内線なら敢えて787である必要はないので、787は国際線に入れて、国際線用の767-300ERを国内線に転用する方が効率が良いかもしれない。

アマゾンで返品

今まで長いこと アマゾン を利用してきて、このたび初めて返品することになった。手続自体はとても簡単である。注文履歴を開いて返品すべき商品を含む注文を選択する。それから返品する商品を選択しその理由をプルダウンメニューから選んで返品の申込をすると。返品伝票と宛名の画面が表示されるので、それをプリントアウトし、返品伝票は返品の箱の中に、宛名は箱の外に貼り付ける。日本郵便に引き取りに来てもらうため、 日本郵便のアマゾン返品専用サイト で返品を申し込むとしばらくして郵便局から集荷にきてくれる。集荷までに商品をなるべくきれいに梱包しなおして、商品が配達されたときの箱に入れて、荷造りをすればよい。そのため、受け取った商品が問題なく使えることが確認できるまでは箱を捨てずに取っておいた方がよい。 集荷が完了すれば物理的な作業は完了する。返金の場合にはアマゾンで返品を確認し次第、アマゾンギフト券が電子メールで送信されるので、再度それを使って買物すればよい。アマゾンギフト券は汎用性があるのであっても邪魔にならない。 順調に行けば、日本郵便で集荷の申込をしてから集荷まで数時間、集荷の翌日にはアマゾンの返品センターに到着し、その翌日にはアマゾンで返品の確認とギフト券の送信が完了するので、返品の申込からギフト券の受取まで2日程度となる。 現金での返品ではなく返品金額と同額のアマゾンギフト券の提供なので、アマゾンは金銭的には損をしない。返品された商品がどうなるか気になるところだが、未開封品なら再利用できるし、開封済みであってもリファービッシュ品として再利用できるものもある。米国のように商習慣上返品の多い国では返品に関するコストは粗利に盛り込み済みだし、リファービッシュ品を割安で販売する習慣が確立しており割安なリファービッシュ品を目当てに買う人もいるので、なるべく資源が無駄にならないようになっている。

土地の所有権は必要か

土地には様々な権利が付随する。空中権とか地上権とか地中権といった使用権や、鉱業権や環境権といった利用権である。一方、土地には消費されないという特性がある。どんなに使用しても土地そのものが無くなるわけではないし(埋蔵されている鉱物は掘れば無くなるが)、建物と違って物理的に劣化することもないからである。したがって土地は減価償却の対象外だし、土地の取引には消費税がかからない。 しかし使っても無くならないとしたら、そのようなものに所有権を設定することに一体何の意味があるのだろうか。所有権とは元来、自由に処分する権利である。すなわち、自ら使用・利用の権利を留保するか(行使するしないによらず)、他者に権利を与えるか、廃棄するかを自由に決めることのできる権利である。土地には廃棄するという選択肢が無いから、使用や利用の権利を留保するか、あるいは使用・利用の権利の一部または全部を売却するかしかない。使用や利用の権利はもともと金銭での取引が想定されているものなので、結局土地には使用や利用に関する権利の束しか存在しないことになる。他の権利との整合性を確保すべく、そのような権利の束を便宜上所有権とみなしているに過ぎない。 土地はもともと地球のものである。人間は地球から与えられた土地を間借りしているに過ぎない。土地をどのように使用・利用するかについては人間同士の権利の取り決めが必要だろうが、土地を作り出すことも廃棄することもできない人間が土地を所有するなんておこがましい(埋め立てや干拓によって陸地を作り出すこともできるがそのためにはその水面に関する権利が必要)。土地を所有しているなどと思い上がったことを考えるから土地の所有をめぐって争ったりするのである。そういう無益な争いを無くすためにも、土地を所有するなどという概念は取り払ってしまった方がよいのかもしれない。

誰のためのスポーツなのか

レスリングが2020年のオリンピック種目から除外される候補になったことで、レスリング存続へ向けての動きが出てきた。2013年5月31日現在、レスリングと野球・ソフトボールとスカッシュのうちどれか1種目が存続することになっている。これまでを振り返ってみて疑問に思ったことがある。レスリング存続へ向けて運動した人達は、一体誰のためにオリンピックでプレイしたいのだろうか。 オリンピックはアマチュアリズムの建前こそあれ、実態は世界中の観客へ向けた興行である。アマチュアリズムの建前は、ある意味他のプロスポーツの興行主と競合しないようにするための便法ともいえる。興行である以上、より多くの観客を魅了できるスポーツ、より多くのお金を落としてもらえるスポーツがオリンピックの種目として採択される。だからオリンピックの種目として採択してほしかったら観客にとっての面白さをアピールすればよい。 サッカーはヨーロッパと南米を中心に多くの国で人気があるし、金払いの良い先進国の観客もいるから興行価値がある。一方、野球は米国、カリブ海、東アジアといった限られた国でしかプレイされないし、米国と日本を除けばあまり金払いが良くない。レスリングは東欧諸国で盛んだが、東欧ではレスリングに限らず柔道といった他の格闘技も盛んなので、あまり多くの格闘技を採択しても観客層が被ってしまう。ポロはインドでは圧倒的な人気を持つがインド以外では人気が無いので国別の競技が成立しにくい。相撲も、外国人力士が増えたとはいえ、日本とモンゴルしか対戦しない競技がオリンピックに採択されるとは考えにくい。それなら現状通りに日本国内で開催して放映すれば十分である。 スポーツのルール変更も観客が楽しめるようにという目的に沿って考えれば合理的なものばかりである。プレイヤーにとってルールが与件である一方で、興行主にとってはルールは試合を面白くするための手段でしかない。だから特定の国出身の選手ばかりが優勝する場合には、その選手が優勝できないようにルールを変えるようなことも当然行われる。背泳においてバサロキックが支配的になればつまらないからバサロキックを禁止する。当然のことである。別に鈴木大地選手に恨みがあるわけではなく、試合を面白くするためである。ルールの抜け穴を突いて出し抜こうとしても、すぐにルールを変更されてしまうのである。もちろん、...

65歳定年は必要か

年金支給開始年齢が65歳に引き上げられるのに伴い、65歳までの雇用が義務付けられるようになった。国が年金を払えないから企業に肩代わりしてもらおうということである。しかし、定年が65歳に引き上げられて実現するのは、給与の後払いが65歳までの期間に延長され、後払いが平準化されることである。すなわち、生涯賃金が変わらないまま会社に時間を拘束される年数だけが増えることになる。 もちろん、年金会計や財政が危機的な状況にある以上、何らかの形で痛みを分かち合わざるをえないのかもしれない。しかしそれでも、いやそれだからこそ無駄なことをしている場合ではないのではないか。 日本企業の長期雇用における賃金カーブは、若年期には企業が育成コストを負担し、働き盛りの時期には企業が育成コストを回収する。さらにしばらく企業が給与の後払いの原資を確保し、高年期には給与の後払いがなされる。育成コストの回収と、忠誠心を引き出すための給与の後払いが組合わさっている。 後払いの原資は働き盛りの時期に確保済で、これはその後増えることはない。あとは何年かけて後払いするかの問題でしかない。60歳定年なら60歳までかけて後払いするし、65歳定年なら65歳までかけて後払いするまでのことである。昔のように55歳定年なら55歳までかけて後払いすることになる。定年が過ぎれば雇用が終了するか、時価で再雇用するかである。 そのような状況で効率的なのは働き盛りの年代の終わる頃、おそらく45歳から50歳頃に後払い分の給与を退職金として一括払いし、その後は時価で雇用することである。まだ働きたい人は時価で働けばよいし、引退したければ早く引退すればよい。 給与の後払いの金額が一定のもとで、引退するか時価で雇用されるかの選択の幅を広げるためには、定年は早ければ早いほどよい。定年が遅いと、早く引退したい人まで無駄に時間を拘束することになる。昔なら窓際族という潔い道があったが、目先の利益に厳しくなるとそういう悠長なことはできなくなって、尤もらしい仕事を作ることになる。本来目的達成に資する業務を遂行するはずの組織で、仕事のための仕事がまかり通ることになり、組織の規律を損ねることになる。 たしかに、定年を引き上げてもそれをバイパスする方法はある。一つは早期退職優遇制度(buy out)であり、もう1つはいわゆるリストラであ...

中野駅配線改良案

【現状での課題】 発着番線がバラバラでわかりにくい。 緩行線新宿方面行きは2番線または5番線発。三鷹方面へは1番線発、3番線発、または6番線発。東西線は4番線または5番線発。次の列車の発着番線を階段下の電光掲示板でいちいち確認しなければならない。 対面乗り換えができない。 緩行線と快速との対面乗り換えができないばかりでなく、緩行線と東西線との対面乗り換えもできない。緩行線中野止まりの列車から三鷹方面への乗り換えは2番線から3番線への移動が必要。東西線中野止まりの列車から三鷹方面への乗り換えは4番線から1番線への移動が必要。緩行線上りから東西線への乗り換えは5番線から4番線への移動が必要。緩行線上り東西線直通列車から緩行線上り新宿方面への乗り換えは5番線から2番線への移動が必要。すべて階段の昇り降りが伴う。 中野駅での乗り換えの不便さから派生する杉並三駅問題。 高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪から新宿方面に行く場合、中野駅で快速に乗り換えるのも、東西線直通列車から緩行線に乗り換えるのも不便であり、新宿志向の強いこれらの駅で快速が通過すると極めて不便になる。そのため、快速列車がこれらの駅に停車せざるをえなくなり、快速の所要時間が増大し、遠方からの旅客の負担になっているのに加え、特別快速や特急のダイヤも制約される。 【背景】 緩行線の車庫の存在。 大正時代に両国から中野までの線路が建設されて以来、中野が総武線からの乗り入れ列車の終点であり、車庫も中野にあった。現在は検修機能は三鷹に集約されているものの、留置線は引き続き使用されている。なお、三鷹の車庫はもともとは快速線用として建設されたもので、豊田に快速線の車庫ができた際に緩行線の車庫になった。 総武線側と中央線側の旅客数の違い。 比較的混雑する総武線側は列車本数が多く、しかも都心側で折り返し可能な駅が中野と三鷹しかない。一方、中央線側は乗客数が少ないため、輸送力を調整する必要がある。現状では中野を境に輸送力に大きな差をつけているが、緩行線の利便性を向上して乗客数を増やせば中野での折り返しが必要なくなる。 東西線と緩行線の両方に中野駅折り返し列車が存在する。 そのため、緩行線の2面3線のホームが東西線の島式ホームを挟み込む形になっている。2番線は主に中野での折り返し列車向けに使われているが、車庫への入出庫用...

超訳This is a pen.

中学英語の最初に出てくる文は、 "This is a pen." "Is this a pen?" "Yes, it is." というものだが、これは統語論的には間違っていないものの、意味論的には謎が多い。通常の脈絡で考える限り意味不明である。目の前でペンを見せて「これはペンです」なんて言ったら会話としておかしい。一体どんな脈絡だったら意味をなすのだろうか。 「おい、これ見てみろよ。」 後ろからつんつんされながら声をかけられた。面倒だったので振り向かずにとりあえず聞いてみた。 「これって何だよ。」 「まあいいから、とにかくこれを見てみろって。」 しぶしぶ振り向くと、手のひらに子猫が乗っかていた。なんだかかわいい。猫はかわいいけど、そういう風に勿体ぶって見せられるのは気に食わない。 「猫がどうかしたのかよ。」 「これ、何だと思う?」 どう見ても猫にしか見えない。こいつ何言ってんだ。まあとりあえず話に付き合ってやろうか。 「どう見ても猫だろ。猫じゃなかったら一体何なんだよ。」 「こいつはな、実はペンなんだよ。」 はあ?こいつ、変なクスリでもキメて頭がイカれたんだろうか。しかし一体何のクスリをキメたらこんな風になるんだ。それを考えだすとキリがないので、とりあえず目先の疑問から解決することにした。 「これがペンだって?」 そう言いながら脳内で3回「バーカバーカバーカ」と繰り返した。 「そうよ。」 そうよと言われたって、やはりどう見ても猫にしか見えない。敢えてそういうことを言うことからして、何らかの意図がありそうだが、それが何の意図だか考えるのは面倒なので、とりあえず常識的な質問を返した。 「それのどこがペンなんだよ。もしそれがペンだとしたらどうやって文字を書くんだよ。」 その質問を待ち構えていたかのように、平然と言い放った。 「じゃあ、紙出しな。」 あまりきれいな紙を出すのも勿体なかったので、手元にあったコピーの裏紙を渡した。というか、そういうつもりだったら最初から紙くらい自分で準備しろ。 おもむろに紙の上に猫を置く。ふにふにしながら動かしていると、そこに文字が浮かび上がってきた。ペンの定義を思い起こすと、こいつは確かに国語的にはペンだ。こうして実演されると、目の前...

物不足で苦労を経験すると物を大切にするようになるか

世間一般では、「貧しい生活を経験した人は物を大切にする」と信じられている。物不足で苦労した人をねぎらう美談として扱われているのか、誰も表立って否定しない。しかし戦時中や戦後の物不足を経験した世代の行動を観察していると、もし本当に物を大切にしていたら決してしないような行動が見受けられる。 例えば、買ってきた生鮮食料品を冷蔵庫に入れっぱなしにして腐らせる。食べきれないほどの料理を作って残して捨てる。電子レンジやオーブントースターで温めたものをほったらかしにしてまずくしたり食べられなくしたりする。食べ物を大切にするなら多少まずくなっても我慢して食べるだろうが、そういう人に限って食べずに捨てる。年を取れば物を忘れやすくなるとはいえ、これが100万円の札束だったらほったらかしにするだろうか。100万円の札束はほったらかしにしないけれども食べ物はほったらかしにするということは、お金は大切にするけど食べ物は粗末にするということである。 使いもしないものを貯め込んで、使うことも捨てることもしない。物を持っているときの選択肢は4つある。最終的には「使う」「売る」「人にあげる」「捨てる」のどれかに該当する。使わないなら売るか人にあげるか捨てるかするしか選択肢が無いはずなのに、人に与えることもしなければ手放すこともしない。使わないものを手放さないのは物を大切にしていることにならない。必要な人に使ってもらう方が物を大切にしている。生鮮食料品はいつか腐るが耐久消費財は陳腐化しても腐らないので往々にしてゴミ屋敷になる。こういう行動は生まれた頃からそこそこ豊かだった若い世代よりもむしろ幼少期に貧しい生活を経験した老人世代によく見られる。 しかしその一方で、物を大切にする人だってもちろんいる。そうでなければ「貧しい経験をした人は物を大切にする」なんてことが疑問も無しに受け入れられるはずがない。同じような経験をしながら、なぜこのような違いが生じるのだろうか。 物不足で苦労したとき、人が抱くであろう観念には2種類ある。1つ目は「これだけ僅かなものがあるだけでもありがたい」というものであり、2つ目は「物が足りないせいで節約させられている」というものである。前者の場合、物があることに感謝して大切に使おうとする。これは通説通りである。一方後者の場合、「物が足りていれば節約しなくてよい」「物を...

軽便鉄道規格の復活を

普通鉄道の規格は年々高規格化している。新設鉄道では踏切の設置が認められないといった土木に関する規格の向上とか、ATSの機能要件の追加といった保安設備の規格向上である。在来線といえども時速130km運転をしていたり、2分間隔の高密度運転をしていれば、安全に関する要求水準が高くなるのは当然のことである。踏切の中に取り残されたまま時速130kmの電車が接近したらまず助からないし、ヒューマンエラーで曲線通過速度が大幅に超過したら大惨事になる。正面衝突はおろか追突であっても大事故になる。側線の車両が本線にはみ出して通過列車と接触しても大事故になる。混雑するホームから乗客が転落したら助からないので、ホームドアも必要だろう。一部車両がホームからはみ出して停車してドアカットするのも、万一車内で火災が発生したら脱出できずに多数の死傷者を出すことになる。普通鉄道といえども、蒸気機関車が時速40km程度で走っていた時代と比べればかなり高規格化している。 その一方で、JRのローカル線や地方私鉄では車両も地上設備も昔のままである。昔と変わらず時速40km程度で走っている路線で踏切を全廃するのは現実的でないし、いざとなったらすぐに停止できる程度の速度で走っているなら目視でもある程度対応できる。普通鉄道とは違うが併用軌道上の路面電車は自動車と同様に目視確認である。低速で運転している限り、遠目に見てレールが波打っているくらい軌道の精度が低くても安全には問題ない。通過列車が無ければ構内踏切があっても安全上問題ない。そのような路線でJRの幹線や大手私鉄と同等のレベルを要求したら費用がかかりすぎて、路線や会社そのものが無くなってしまう。現状の法運用ですら鉄道では保安設備の負担が大きくてローカル線が次第に廃止されているのだから、幹線鉄道に合わせてルールを強化していったらいずれ地方私鉄は全滅しかねない。 しかし法律は規格の高い側に合わせて作らなければならないので、低規格のローカル線では特例ばかりになる。しかし特例で認めるというのは裁量行政である。法律は一定の制度趣旨に即して制定されるので、制度趣旨を尊重しないのは問題だし、法律が制度趣旨に合致しないなら、法律を改めるべきだろう。特に安全基準は一定の科学的根拠に基いて策定されるものなので、それならば、低規格の路線であっても一定の科学的根拠に基づく明文化...

名前を取り戻せ

会社に勤めている人はごく当たり前に本名で仕事をし、名刺にも本名が書かれていることだろう。しかしその結果、個人として行ったことが会社の看板に傷をつけることもありうる。法に触れることをしたり著しく公序良俗に反することをしたり対外的に所属組織を公然と批判すれば当然そうなるが、それに限らず、個人としての何気ない発言もまた、会社の看板に傷をつけることになりかねない。物事を悪意的に受け止めようと思えばいくらでも可能だからである。 なので個人として気軽に発言したかったら本名を伏せるのが最も安全である。しかしそうなると会社に名前を奪われたようなものである。名前を人質に取られて個人として当然の権利も行使できないとなったら、それではまるで会社の奴隷ではないか。個人としてペンネームを用いるのは本人の自由だが、対外的に所属組織を伏せてもなお本名を用いることが会社の看板に影響を及ぼすものとして制限されるなら、それは「仕事は仕事、個人は個人」という公私の区別を越えた人権侵害である。 そのような事態が発生することの根本原因は、従業員が本名で仕事をしていることである。そもそも、目立つ立場の人は本名とは別に仕事用の名前を使って仕事をするものである。芸能人は芸名を使って仕事をするし、文筆業者はペンネームを使って仕事をする。仕事用の名前はあくまでも仕事人格を表すものであり、本名は個人の人格を表すものとして区別されている。仕事の内容の違いによって複数の芸名や複数のペンネームを使い分けることもある。それほどまでに名前は人格を表すのである。自営業者の場合は本名で仕事をする傾向があるが、それはおそらく自らが経営者であるため、仕事人格と個人の人格とを使い分ける必要があまり無いからであり、新興宗教の教祖のようにビジネスネームで活動することだって可能である(なので、本名を会社に奪われるのが嫌なら自営業者になるのが一番手っ取り早かったりする)。 ネットによって情報伝達のスピードと範囲が拡大し、本名での言動が会社やステークホルダーに影響を及ぼすものならば、それは芸能人並のネームバリューがあるということだから、当然ビジネスネームがあって然るべきである。そもそも仕事をするのに本名は不要である。あくまでも組織の方針に沿って所定の仕事をすればよくて、その従業員の名前が何であろうと本質的ではない。他の人と区別がつくなら...

効率賃金仮説ふたたび

今はもうそれほどではないかもしれないが、高度成長期の日本の大企業は男性正社員が家庭を持つことにポジティブで、今や死語だがOLという名の事実上の花嫁候補まで会社が提供していた。住宅の取得も奨励していた。その一方で、家庭を持たない従業員に対しては一人前の人間でないとか、家庭を持てないのは人格的に問題があるからだといった人格攻撃がまかり通っていた。ではそういう会社では家庭を持ったら家族と楽しく過ごせるかというと全然そんなことはなくて、日本の企業は始業時刻には厳格な反面終業時刻にはいい加減で、その結果長時間残業が当たり前で、家族と一緒に夕食を取ることすらままならなかった。有給休暇の取得も容易でなかったので、盆暮れのごく限られた時期にアリバイ的に「家族サービス」をするのがならわしだった。 一体何のための家庭なのだろうか。もし企業が本当に従業員のことを思いやっているのなら、どうして家庭を持たせた挙句その家庭から引きはがずようなことをするのだろうか。このような一見不可解な企業の振る舞いにどのような説明を与えることができるだろうか。 まず、家庭を持ったり住宅ローンを組んだりすると、年収からして不釣り合いなほどのキャッシュアウトにコミットすることになる。住宅ローンで年収の数倍ものレバレッジをかけるし、利息の支払もあるから、実際には年収の10倍くらいのキャッシュアウトにコミットすることになる。住宅ローンを完済するまでは30年近くかかり、えてして定年近くになって完済するか、住宅ローン残高を退職金で完済するかになる。企業がこんないびつな投資をしたら銀行からお金を借りられなくなるのに、従業員に対しては当然のこととして奨励する。住宅以外にも家庭を持てばいろいろお金がかかる。実質一人分の給料で数人が暮らせばお金がかかって当然で、特に子供の教育費がかかる。その結果家庭を支えている父親は月数万円の小遣いしか与えられなくなる。 家庭にこれだけの投資をさせておきながら、その家庭には滅多に戻らせない。せっかく家族のために身を粉にして働いても、家庭では家庭を顧みない父親として蔑まれる。なんてひどい仕打ちなのだろうか。 このような巨額のキャッシュアウトにコミットすることの当然の帰結として、会社を辞めるのがとても難しくなる。既に巨額のキャッシュアウトにコミットしている結果、同等かより有利な条件で...

一票の格差の是正方法について(その2)

(その1) では、一票の格差の是正方法について以下の5つの方式を列挙した上で、1と2の方式についてそれぞれの長所と短所を見てきた。 選挙区の区割りの変更 有権者人口に応じて議員の議決権に係数をつける 地域別選挙区を廃止して年齢別選挙区等の他の切り口で選挙区を設ける 選挙区を無くして全国区のみにする 議員選挙を廃止して直接民主制にする (その2)ではさらに踏み込んで、情報技術を活用することによって地域別選挙区にとらわれない方式の実現可能性について見ていきたい。3の方式から順にそれぞれの長所短所を見てみよう。 3の方式では、「そもそもなぜ地域別選挙区なのか」ということから疑ってかかる。従来情報技術が未発達だった頃には、政治活動の手段は集会を開いたり演説したり印刷物を配布したりすることに限られていた。そのためには政治活動のエリアをある程度狭くする必要があった。しかし今では情報伝達の手段が多様化しているため、敢えて地域別に選挙区を区切る必然性が乏しくなっている。例えば日本維新の会の橋下徹共同代表は主にTwitterで発言しており、全国にフォロワーが100万人近くいる。YouTubeのようなネットでの動画配信も可能だし、ニコニコ生放送のように視聴者のコメントをその場でもらいながら生放送することだって可能である。SNSも昔とは比べ物にならないほど充実している。文書の配布だけならウェブ上で簡単にできる。直接対面する場も必要だろうが、頻度が低ければ地理的な近さの優先順位はさほど高くない。 では、地域別以外の選挙区を導入することの長所短所を見てみよう。長所としては、 地域以外の様々な属性を反映させることができ、多様な民意を反映させることができる。有権者の属性には地域だけでなく年齢、性別、職業、所得水準といった様々なものがあり、様々な利害の対立軸がある中で、居住地域はそのうちの1つでしかない。地域という特定の属性のみに偏った選挙区は往々にして国益について論じる国政の場を地域への利益誘導の調整の場としてしまう。例えば、社会保障に関しては世代間の利害対立なので年齢別選挙区の方が妥当。 一方、短所もある。主に選挙実務に関するものである。 選挙管理委員会は地域別に編成されているので、有権者名簿を確定する作業が事務的に煩雑。しかし、選挙にお...

一票の格差の是正方法について(その1)

一票の格差の是正というと、従来は選挙区の区割り変更という形で行われてきたが、これは過疎地の選挙区を広げ、過疎地の議席を減らすという形で行われてきたため特に過疎地選出の議員に負担が大きく、一票の格差を迅速に是正するには難がある。 一票の格差を是正する方法としては以下のようなものが挙げられる。 選挙区の区割りの変更 有権者人口に応じて議員の議決権に係数をつける 地域別選挙区を廃止して年齢別選挙区等の他の切り口で選挙区を設ける 選挙区を無くして全国区のみにする 議員選挙を廃止して直接民主制にする 1以外は現時点で採用されていない方法ばかりだが、それは情報技術を活用しない限り事務コストが高すぎて実現可能性が無かったからである。しかし情報技術の発達によって実現可能性が増してきたので、そろそろ検討してみてもよいのではないだろうか。ここでは1から順にそれぞれの方式の長所と短所に触れてみよう。 まず、1の選挙区の区割りを変更する方式についてだが、長所は法律によって各選挙区の地域を明示しやすいことと、情報技術を一切必要としないことである。短所は以下の通り。 区割りの変更による対処では一票の格差が残る。既存の自治体の区割りをベースにする限り、格差を最小限に止めようと努力しても2倍くらいの格差が生じる。 そもそも地域の人口は常に変化するので、ある時点で格差を是正しても、人口が変化したらまた格差が発生する。場当たり的な区割り変更をしても抜本的な解決にならない。実際、今後は過疎地で急激に人口が減少することが予測されているので、区割り変更を繰り返さなければならない。 過疎地の選挙区が広大化する傾向があり、政治活動が地理的に難しいのみならず、新規に選挙区となった地域で新たに地盤を築くための労力が必要になったり、今まで選挙区だった地域が選挙区でなくなることによってそれまでその地域に地盤を築くための努力が無駄になる。区割りを頻繁に変更するとさらにその影響が大きくなる。 特に3は過疎地での議席の減少以上に候補者に負担をかける。選挙区の区割り変更はただでさえゼロサムゲームなのに、政治活動の負担も増すとなればマイナスサムゲームであり、これでは一票の格差の是正が進まないのも無理もないことである。そのため、裁判で選挙無効にならない程度の遅々としたペースで選挙区の区...

おサイフケータイ無しの生活は可能か

iPhoneを導入する上で最も制約になるのは、iPhoneではおサイフケータイを利用できないということである。おサイフケータイを利用することを前提にするとガラケーとの2台持ちになってしまうが、どうせガラケーを持つなら電話機能はガラケーでカバーできるのでiPhoneに毎月6000円かけるまでもなく、iPod touchとPocket WiFiとの組み合わせにすれば維持費は毎月4000円で済む。ハードウェアの数が増えてしまうものの、電話に求める機能とスマホに求める機能は違うので、敢えて1台にまとめるまでもない。 しかしそれでも1台にまとめられればたしかに便利である。最もシンプルなのはiPhoneを諦めてAndroidスマホ1台にまとめることかもしれない。全般的な使い勝手の悪さ、さらに音楽プレイヤーとしての使い勝手の悪さを気にしないなら、おサイフケータイの載ったAndroidスマホ1台で全部まかなえる。ガラケーからスマホに乗り換えるだけだったらAndroidでもあまり気にならないかもしれないが、一旦iPod touchでiOSの使い勝手に慣れてしまうと、とても手を出すつもりになれない。中途半端なiOSもどきに手を出すくらいだったらiPod touchの方がまだ使いやすくて、そうなると結局ガラケーとの併用ということになってしまい、振り出しに戻ってしまう。 おサイフケータイに依存しなければiPhone1台にまとめることができる。iPhoneではテザリングを利用できるので、自宅に固定回線があって外でのデータ通信が少なければ問題ない。それに最近はWiFiスポットが増えているので、通信を極力WiFiに逃がすことで対処できる。おサイフケータイは慣れてしまうと便利で手放せなくなるが、昔はおサイフケータイなんて無かったのだから、頑張れば戻れないこともないだろう。 おサイフケータイのうち比較的利用が多いのはモバイルSuica等の交通系電子マネーだろう。普段JRを利用していればSuicaは必須である。普段電車に乗っているならオートチャージを有効にしておけば改札口を通る都度残高が不足していれば自動的にチャージされるのでチャージの手間が省ける。少しリスクを取ってチャージ金額とチャージされる残高のしきい値を多目に設定しておけば、常に十分な残高が確保される。駅の券売機でもチャージできるし...

AmazonでSuica決済を利用してみた

2013年2月19日から、Amazonでの支払にSuicaを使えるようになったので早速利用してみた。支払の手順はAmazonのヘルプページの 電子マネー払いの項 と モバイルSuica払いの項 に記載の通りなのだが、記載項目が分かれているために直感的にわかりにくい部分があった。 注文確定時に支払方法を指定するが、そこは「コンビニ・ATM・ネットバンキング・電子マネー払い」を選択すればよい。商品の在庫が確認されてから(取り寄せの場合は商品が入荷されてから)「支払番号通知メール」がAmazonで登録されたメールアドレスに届く。メールに記載されたURLアドレスを開くと、当該注文の決済方法をさらに細かく指定することになり、その際にモバイルSuica払いを選択すると、そこで初めてモバイルSuicaで登録した携帯メールアドレスを入力する画面に到達する。すると携帯メールに「ネット決済受付」のメールが届くので、メール内のURLアドレスを開くとモバイルSuicaのアプリが起動してSuicaからの支払を行う画面になる。Amazonが支払完了を確認してから出荷体制に入る。 Amazonに登録してある電子メールアドレスはPC用メールアドレスだけで、しかもメールアドレスは1つしか登録できない。一方、モバイルSuicaでの決済には携帯メールアドレスが必要で、一体どのタイミングで入力するのだろうと思ったが、支払の直前になって初めて入力するのだった。しかも携帯メールアドレスは決済の都度入力が必要であり、煩雑な印象を受ける。Amazonのシステムを改修して携帯メールアドレスを格納できるようにして、デフォルトでその携帯メールアドレスに決済のメールを送るようにすれば手間が省けるのだが、電子マネー払いなんて日本にしか無いので、全世界で運用しているAmazonの決済システムにあまり手を加えたくないのかもしれない。 利用してみると、クレジットカード決済に比べてかなり時間と手間がかかると感じた。Suicaの残高が不足している場合にはチャージも必要である。ちなみにSuicaへのチャージは急ぐ必要はなくて、携帯電話にネット決済受付のメールが届いてSuicaから支払を実行する直前で十分である。 そこまで煩雑な思いをしてまでSuicaで決済することのメリットは何だろうか。1つはクレジットカードのポイント...

殺人の影響度をどう推定するか

昔から、ちょっと殺人事件が世間を賑わすたびに「最近は物騒な殺人が増えている」という感想を言う人がマスメディアに出てきて、それに対して「戦後の日本の殺人件数は一貫して減少している」というデータを出して反論してくる人が出てくる。それに対して「はいそうですか、実は殺人は減少しているのですね」と人々が納得するかというとそうはならなくて、似たような殺人事件が発生するたびに同じような議論が繰り返される。 「マスコミはミスリードしている」とか「そんなマスコミにミスリードされる人はメディア・リテラシーが無い」と言うこともできるかもしれないが、もしかしたら人々がそのように感じるのには何か理由があるのかもしれない。存在するものが100%正しい保証は無いが、100%間違っているとも限らない。むしろ、「実際の殺人件数が減少しているにも関わらず、なぜ人々は殺人が増えたと感じるのだろうか」という問いを立てる方が建設的だろう。 そもそも何を以て「殺人が増えた」とか「減った」とか言うのだろう。客観的には件数とか死者の数であり、「事実と論理によって議論するならそれしかない」と思っている人もいるようだが、人々がどう感じるかという主観は必ずしも件数や死者の数だけによって影響されるとは限らない。例えば、殺人の絶対数がたとえ多くても、戦争や空襲で膨大な数の人が亡くなった時期には、人々は殺人どころの騒ぎではなくて、あまり気にしないかもしれない。また、日常的に殺人が発生する危険な地区では殺人はさほど大きく取り上げられない反面、安全な地区で殺人が発生すればたとえ数年に1件であっても大騒ぎになる。 あるいは、貧しい国では命が粗末にされる一方で、豊かな国では命の値段が高いから、命の値段を積み上げることで失われた命の価値を推定したら、もしかしたら失われた命の価値は増加しているのかもしれない。たとえ殺人の件数が減少傾向にあっても、それ以上のスピードで命の値段が上がれば起こりうることである(反対に、たとえ殺人件数が増えていても、命の値段がそれ以上のスピードで下がれば、失われた命の価値は減少するだろう)。 もっと単純な話としては、単にマスコミが殺人を記事にする頻度によっても影響されるかもしれない。しかしここで気をつけなければならないのは、マスコミが殺人を取り上げるのは原因なのか結果なのかということである。確か...